放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(6)
小学4年生まで暮らした長崎県佐世保市の大黒町市営第三住宅。父靖重と母朝子と一人っ子の私は、2階の6畳一間に住み、寝るときはいつも川の字でした。隣に母の妹である叔母八重子も住んでいました。この家、小学生に上がる頃には「恥ずかしさ」が芽生えます。風呂なし、トイレも共同。木造校舎のような古い共同住宅に20家族60人が住んでいたのです。友達を呼ぶのもはばかられました。
そして両親のことも。どこまで記憶をたどっても、父は白髪頭でした。それもそのはず。私は父56歳、母47歳の時の子でしたから。
佐世保の繁華街には、直線で日本一の長さと言われるアーケードがあります。家族で年に数回、百貨店の佐世保玉屋のレストランに行くのが楽しみでした。カツカレー、ソフトクリームを食べれば、まさに至福の時。ただ一つのことがなければ。
父と一緒に街を歩いていると、「かわいか孫たい」「おじいちゃんと一緒でよかね」と言われた記憶があります。違うのに。
保護者参観日もそう。後ろを振り向くと、黒髪の若いお父さんがいる中に白髪の人が1人。すぐに見つけられますが、オセロ風ゲームで黒に大敗した白のような光景です。当時、父は還暦を過ぎていましたから、一緒に歩くのは恥ずかしさがありました。
最近の60歳以上の方は随分と若作りです。現在66歳の私も鏡を見るたび、まだイケるかもって、勝手に思っちゃいますが…、ウソです。子どもの頃は昭和生まれのパパ、ママが大勢いる中、明治生まれの父は明らかに違和感がありました。
とはいえ、父は威厳ある人だと感じていました。家では着物。ちょっとした外出はスーツにソフト帽子。おしゃれでした。すった墨に小筆を漬け、達筆な手紙を書いていました。畳のへりを歩くなと叱り、箸の上げ下げ、しつけにも厳しい人でした。明治の男です。ただ一度も手を上げられたことはないし、ちゃぶ台をひっくり返されたこともありませんでした。
息子の私が言うのもなんですが、大病院の院長、大会社のオーナー社長って雰囲気でした。「6畳一間のセレブ」だったのか。そんな父が働いていたのは佐世保競輪場でした。
そこで経営をしていたのかって? そう、当たりです。さすがですね。読者の方、鋭い。父が切り盛りしていたのは場内の小さな食堂でした。 (聞き手は西日本新聞・山上武雄)
………………
海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年06月22日時点のものです
Source : 国内 – Yahoo!ニュース