よく晴れた日の朝だった。気温は2度をやや上回っている。2019年11月、宮城県石巻市。市街地を見下ろす霊園で、白い布に包まれた骨つぼが、グレーのジャケット姿の女性に手渡された。
津波の爪痕が至るところに残っていた11年5月、市街地のがれきの中から、その遺体は見つかった。しかし、8年以上身元はわからなかった。
女性は、作業着のような服装でかたわらに立つ男性に声をかけた。「大変でしたね、お疲れ様でした」
行方不明届も出ていなかった。引き取ることにした女性は、血のつながりのない遠戚。それでも白い包みを大切そうに両手で抱え、霊園を後にした。
男性、宮城県警の京野祐也警部補(37)は、その様子を見送り、ようやく胸をなで下ろした。
拡大する宮城県警の身元不明・行方不明者捜査班の京野祐也警部補=2020年2月3日午後、仙台市青葉区、小玉重隆撮影
「人生の終着点を見つけてあげられた」
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東日本大震災からまもなく9年。東北に暮らす記者たちが被災地のいまを報告する。
数百ページの捜査の痕跡
引き継がれたファイルには、数百ページにわたって捜査の軌跡が記されていた。
拡大する引き継がれた捜査記録から、わずかな手がかりを捜すのが京野祐也警部補の日常だ=2020年2月3日午後、仙台市青葉区、小玉重隆撮影
2011年5月15日
石巻市門脇町5丁目先ガレキの中
溺死(できし)、全身炭化
下半身の痛みやしびれ場合によっては不随
周辺の聞き込みや、骨・入れ歯の鑑定によって、ある独り暮らしの女性が浮上していた。しかし、決め手にかけた。昨年の春。京野祐也警部補(37)が着任したのは、そんな矢先のことだった。
拡大する引き継がれた捜査記録から、わずかな手がかりを捜すのが京野祐也警部補の日常だ=2020年2月3日午後、仙台市青葉区、小玉重隆撮影
仙台市中心部。宮城県警の7階建てビルの地下1階に、看板のない一室がある。扉を開けると、ついたての貼り紙に「身元不明・行方不明者捜査班」とある。それが京野警部補の職場だ。
捜査班は、東日本大震災の発生8カ月後に発足。これまでに約600の遺体を遺族らに引き渡してきた。ただ、規模は徐々に縮小し、22人いた班員は4人となり、そのうち3人はOB。京野警部補は唯一の現役警察官となった。
「8年以上経ち、まだできることがあるだろうか」。所轄署の鑑識係から異動を告げられたとき思った。仙台市の繁華街でさえ、遺体の身元捜しの協力を呼びかけるポスター掲示が敬遠されるようになっていた。
分厚いファイルを何度も見直した。焼損した遺体の写真、浮上した女性の家系図。遺体が最初に運び込まれた場所で記される「遺体票」もあった。
票の中の「不明」の文字を見ていると、あの日の光景がよみがえる。
2011年3月11日午後2時46分、仙台市内。京野警部補は被疑者と向き合っていた取調室で、激しい揺れに襲われた。夜になっても、無線がつながらない同僚がいた。割り振られた現場は沿岸に近い体育館。検視のための遺体収容場所だった。
傷だらけの顔。砂があふれでた口や耳。押し寄せた津波に耐えようとしたのか、固く握られたまま硬直した手。事件現場で多くの遺体を目にしてきたが、どれとも違う、無数の苦悶(くもん)の表情が目の前にあった。
発見者や発見場所、日時を「遺体票」に記した。身元が特定できる遺品などは少なく、氏名欄には不明、不明、不明と書き続けた。すぐに家族に引き取られるものだと思っていた。まさか8年を過ぎて、不明のままの遺体があるとは、想像さえしていなかった。
ファイルを開く手が止まったのは、入れ歯に関する記述を目にしたときだった。〈自分が作ったものに間違いない〉。前任者があたった歯科技工士が証言していた。その後、捜査は、DNA型鑑定のための親族捜しに重点が置かれ、入れ歯についてはそれ以上調べられていなかった。
拡大する捜査記録のファイル。捜査班の部屋にずらりと並ぶ=2020年2月3日午後、仙台市青葉区、小玉重隆撮影
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル