4日午前、奈良県五條市大塔町の宇井地区で市主催の追悼式があった。約20人の遺族の最前列には、長女の中西麻紀代さん(当時37)を失った母の和代さん(78)の姿があった。慰霊碑の前で手を合わせ、献花した。
三重、奈良、和歌山の3県に大きな被害をもたらした紀伊半島大水害。3県で山の斜面崩壊が3千カ所を超え、崩壊土砂量は東京ドームや京セラドーム大阪の約80個分にあたる約1億立方メートルに達し、降雨による土砂災害としては戦後最大規模となった。
宇井地区でも大雨は降り続いた。近くの観測では、3日ほどの総雨量が989ミリを記録した。
雨が上がった4日午前7時7分、対岸の山が幅220メートル、長さ350メートルにわたって岩盤ごと崩れた。深層崩壊による大量の土砂は熊野川を越えて河床から高さ約40メートルに達し、そばの宇井地区がのみこまれた。11戸が流され、8人が死亡し、3人は行方不明のままだ。
和代さんはその時、麻紀代さんと一緒に近所の様子を見て回っていた。避難が必要かもと感じ、川沿いにある自宅の玄関に入ろうとした瞬間だった。
「あーっ」
近くで悲鳴を聞いた後、気を失った。「腕のあたりが痛い」。転落して、川にいることに気づき、がれきにつかまった。対岸に渡って救助された。家にいた夫の好久さんも斜面にしがみつき、無事だった。だが、麻紀代さんがいなかった。
自宅は土砂に流され、何もかもなくなっていた。「(悲鳴は)聞いたことのない娘の声でした。もうだめだとわかりました」
6年近くたった17年6月。麻紀代さんは約20キロ下流のダム湖で遺体で見つかった。被災後、好久さんはショックで持病が悪化。19年12月に78歳で亡くなった。「おれが代わってやれたらよかったのに」と何度も漏らしていた。
麻紀代さんは、2人の兄がいる末っ子。高校を出て就職し、一時は家を離れたが、再び一緒に住むようになった。仕事を休んで好久さんの通院の送り迎えをするなどしてくれた。「我慢強くてね。一生分ぐらい親孝行してくれましたね。私が甘えていたほどでした」
追悼式の後、和代さんは近くにある住民が建立した慰霊碑にも親族6人で立ち寄り、妹3人と作った折り鶴と花束を手向けた。
「いまでは娘が夢に出てくることもなくなりました。この10年、ずっと見守っていてくれたみたいでした。もうゆっくりとやすんで下さい」。和代さんは麻紀代さんの冥福を祈った。(福田純也)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル