「お坊さんになったらお母さんに会える?」 孤児の少年が生きた先に

 原爆で、数千人とも言われる子どもが孤児になった。

 そんな子どもたちを実の家族のように育てた人。そして、その支えを受けて、人生を全うした子どもがいる。

 広島に原爆が投下された時、僧侶の山下義信(ぎしん)さん(当時51)は長崎・五島列島の陸軍の部隊にいた。

 広島市には妻と6人の子が残っていた。13歳の次男が亡くなった。1945年9月に復員後、再会した家族から知らされた。

 焼け野原で目にしたのは、劣悪な環境で暮らす孤児たちだった。

 「何はさておいても『親を与え』『家庭を与える』ということが急務中の急務」。そう考えて県知事に直接かけ合った。現在の広島市佐伯区にあった県の土地と建物を借り、父親や自身の家も売り払って資金を作り、12月に「広島戦災児育成所」を開いた。

 まず受け入れたのは、疎開中に原爆で家族を失った国民学校(現在の小学校)の児童ら80人余りだった。

 髪が抜け、下痢が続く子。

 親恋しさと空腹で泣きやまない子。

 山下さんは、子どもたちの栄養や教育に気を配った。

「どうしたらお母さんに会える?」 尋ねる子に答えた

 ある日のこと。

 「お母さんに会いたい」

 一人の男の子が、空を眺めながら泣き出した。

 大工の父親は早くに病死し、髪結いの母親と妹は原爆で亡くなった。遺骨は見つからずじまいだった。

 男の子は、通りかかった祖父のように慕う山下さんに尋ねた。

 「どうしたらお母さんに会え…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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