オレンジ色の表紙に「戦時日記」と題された、古い帳面がある。
仙台市青葉区に住む氏家昭一さん(95)が、学徒動員で多賀城海軍工廠(こうしょう)=現・宮城県多賀城市=で働いた日々のことなどを、克明に記したものだ。
1944年9月から翌年8月の終戦まで、兵器づくりに従事させられ、敵の機銃掃射に追われるなどした。
17歳の若者は何を見、何を感じたのか。氏家さんが日記を手に語った。
「1丁でも早くしろ。生産、生産だ」
海軍工廠での仕事は、ゼロ戦に搭載する機銃の設計図の写図でした。きちょうめんな性格を見込まれたのかもしれません。
工場近くの寮に住み込んで、3交代制です。
原図の上に薄い紙を置き、からす口で正確に写してゆく。それをもとに機銃を加工するんです。
将校が督促に来る。
「前線から強い要望がある。1丁でも早くしろ。生産、生産だ」
写図は1ミリも間違うことはできない。緊張しましたね。
45年7月。私は体を壊して、工廠内の病院に入院していました。
日記にこうあります。
「突如夜半『空襲警報発令…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル