「はじめての登校日だ。朝、元気よく跳び起きた」
13歳の森脇瑤子(ようこ)さんは憧れの女学校に通い始めたばかり。
広島・宮島の自宅から船に乗り、学校に通っている。
4月に入学してから毎日、日記を書いた。
友だちのこと、学校のこと、出征中の父のこと――。
「学校に行くと、すぐに空襲警報が出た」
(1945年5月11日)
「友だちとゲームをして遊んだ。二人でもとても面白かった」(同7月12日)
「桃やえんどう豆があったので、いただいた。(中略)『お父さんたちは、こんなものは無いだろうなあ』と思って、何だか、すまないような気がした」(同7月20日)
8月5日もいつも通り、明日を思った。
「明日から、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う」
翌朝。
瑤子さんは同級生と一緒に、建物を取り壊して空襲時の延焼を防ぐ「建物疎開」作業をしていた。
午前8時15分。
米軍が原爆を投下した。
瑤子さんは救援のトラックで、約10キロ離れた観音村国民学校(現・広島市佐伯区)に運ばれた。
全身、大やけどだった。
救援に来た地元の女性に瑤子さんは言った。
「お水をちょうだい」
「お茶をちょうだい」
「背中をなでて」
「おばちゃん、手を握らせて」
そして、繰り返した。
「お母ちゃーん、まだ来てないん?」
家族が駆けつける前の8月6…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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