世界遺産の京都・銀閣寺に近い閑静な住宅街。そこでマッサージ院を営む小倉勇さん(88)は75年前、米軍の空襲にさらされ、戦災孤児として生きてきた。
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「母ちゃん、風呂に行ってくるからね」。それが母・まつさんと交わした最後の言葉になった。13歳だった1945年7月12日夜、伯母宅の風呂に入りに行った帰り道、福井県敦賀市の上空に米軍機が現れた。
「まず照明弾。町中がばーっと赤くなって。まもなくして、焼夷(しょうい)弾を落としていくんです。それが雨のような音。怖いんですよ。みんな布団をかぶり、町外れに逃げていきました。どんどん落ちてくるから、後を追って夢中で逃げました。自分のことしか考えられなかった。」
翌朝、敦賀の自宅周辺に戻った。たまたま会った近所の女性から「母がいるらしい」と教えてもらった映画館に向かった。軒先には用水桶(おけ)があった。水を張っておき、焼夷弾などで火災が起きたら消火に使う。母はその水に漬かって、息絶えていた。
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顔は黒く焼け、髪が少しだけ残っていた。それでも母と分かったのは、自宅で使っていた鶴模様の布団をかぶっていたからだった。朝から晩までニシン工場で働き、ほんのりニシンの香りが漂う母。化粧姿を見た覚えはない。テストで満点を取ると、近くのうどん店で天ぷら付きの鍋焼きうどんを食べさせてくれた。
「兵隊は、トラックの荷台にお袋をぼーんと放り投げるんですよ。死体が山のように積んであって、はえがたかっていた。「土葬するからついてきなさい」と言われて行ったけれど、お袋は大きな穴に放り投げられた。苦労するために生まれてきたようなもの。ショックで涙も出なかった。」
父は、終戦半年後にチフスで急…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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