「なつぞら」 北の酪農ヒストリー 第9回「北海道バター事始め」(下) 足で消費者を開拓(日本農業新聞)

 酪農民の悲願だった北海道製酪販売組合は設立の翌1926(大正15)年、北海道一円を事業区域とする北海道製酪販売組合連合会(酪連)となります。しかし、バターはまだまだ市民になじみが薄く、売れ行きは芳しいものではありませんでした。東京のデパートでバターを無料で配っても、誰も持って行かなかったという記録も残っています。

 酪連専務の黒澤酉蔵は、足を棒にして得意先を一軒一軒開拓して歩きました。こうした地道な努力の結果、酪連は創業10年後に道内に製酪工場を18工場も稼働させる発展を遂げます。

 バターの市場創出は、飲用(牛乳)や練乳用に続く新たな需要の開拓であり、まさにイノベーションと呼べるものでした。酪連の業績拡大は北海道に酪農が普及することを意味しました。彼らは良質なバター作り一筋に努力を重ね、商標の「雪印」は次第に全国に知られるようになりました。

 商標は26年に考案したものです。佐藤貢と酪連創業時から営業の先頭に立った瀬尾俊三(雪印乳業2代目社長)は黒澤から商標作りを任され、北海道庁立高等女学校(今の札幌北高校)に通っていた瀬尾の妹の教科書から雪の結晶のヒントを得ました。図案に北極星を加え、最初は「雪星印」にしようとしましたが、語呂が良くないのと、既に「星印バター」があったので「雪印」とします。北海道発祥と清潔さを表すネーミングがぴたりとはまりました。

 雪の結晶は佐藤と瀬尾の母校・札幌一中(今の札幌南高校)の校章にも使われていました。また、練乳会社を経営する河井茂樹の持つ「金章印」も雪の結晶に似ており、後年問題が発生しないように酪連が買い取ったと、雪印乳業社史第一巻に記されています。

 ちなみに、河井の父は森源三といい、司馬遼太郎の『峠』の主人公・河井継之助の部下です。北越戊辰戦争に敗れた後、開拓使に入り、後に札幌農学校第2代校長に就きました。次男の茂樹は再興が許された河井家の婿嗣子になり、札幌農学校卒業後、米国留学を経て練乳場を経営します。

 長兄の森廣は有島武郎の札幌農学校の同級生で『或る女』のモデルです。彼が米国から持ち帰ったポプラの苗木は、後に北大名物のポプラ並木となりました。(農業ジャーナリスト・神奈川透)

日本農業新聞

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Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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