宮城定吉(さだよし)さん(87)はいまも、九つ下、2歳で亡くなった弟の遺骨を捜している。数年に1度、ふと思い立ち、那覇市の自宅から車で40分ほどの沖縄本島南部を目指す。
あのとき、大人の背丈よりも高い、大きな岩を見つけた。必ず戻ってくるからと、そのそばに弟の遺体を寝かせた。しかし、その岩は、もうない。
見つかるはずもないとわかっている。それでも、昔の様子を地域の人から聞き、見覚えのある地形をさがして歩く。そして、雑草が生い茂る空き地で、手を合わせる。「にいにいが来たぞ」と。
連載「終わりなき沖縄戦」
太平洋戦争末期の1945年3月から約3カ月、沖縄では住民が生活する場所で米軍と日本軍が戦いました。死者は20万人余り。うち沖縄県民は12万人以上とみられます。あれから76年。いまなお地中には多くの戦没者の遺骨が眠り、暮らしの中で不発弾が見つかります。沖縄戦をどう継承していくかも課題になっています。
何年かぶりに訪ねたのは今年3月。南へと向かう道は、当時の記憶をよみがえらせる。
拡大する沖縄戦で犠牲になった弟の遺骨を捜し続ける宮城定吉さん=2021年6月16日、那覇市
76年前。11歳だった宮城さんは、南風原(はえばる)村(現南風原町)で祖母と両親、妹、2人の弟の7人で暮らしていた。4月、米軍が本島中部に上陸。自宅と避難壕(ごう)を往復するなか、祖母は米軍の攻撃で、父は軍の作業で持病が悪化し、相次いで亡くなった。
一家は南下を決める。米軍の攻撃は激しさを増した。5月20日に次男の額を砲弾の破片が直撃し、息絶えた。6月20日ごろ、母も腹に破片を受けて倒れた。
残された3人で、丘陵地の壕に身を潜めた。宮城さんはサトウキビをかじり、口移しで、2歳の定宗(ていそう)さんに汁を飲ませた。
6月23日。その日は、前日まで鳴り響いた銃撃音がウソのように静まりかえっていた、と記憶している。空は青く澄んでいた。
壕から外をのぞくと、白い布を手にした日本人らしき人たちが、丘の上を目がけて歩いているのが見えた。3人は、それに倣うように外へ出た。
米兵が2人近づいてきた。1…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル