「キレイなもんや」一転、街は廃墟と化した 体験記にみる神戸大空襲

 神戸をB29の編隊が襲ったあの日、いったい何が起きたのか。「神戸空襲を記録する会」が作成した「神戸空襲体験記 総集編」から再現した。

3月17日

 「いっぺん、上がってきて見んか、キレイなもんや」。炎に追われる少し前、父に誘われて2階の物干し台に出た落合重信さんは、高取山の方向で花火のような焼夷(しょうい)弾の光が散るのを眺めていた。

 宝塚の航空機工場で働いていた横田正造さんの職場では連日、各都市の空襲のニュースが流れていた。10日に東京、12日に名古屋、13日には大阪が次々と壊滅的な被害を受けていた。

 就寝直後に警戒警報のサイレンでたたき起こされた。「今夜はやられるかもしれない…と予感した」

 まもなく、空襲警報がけたたましく鳴り始めた。B29の爆音も響いていた。「夜空を望むと照明弾が投下され、それに地上からの探照灯がさまざまに交差してはまばゆく真昼のように光りわたった」

 兵庫区の長屋に住んでいた原田憲司さんも照明弾の輝きを見た。頭上ではB29の大編隊が旋回していた。

米軍機から神戸港一帯に降り注がれる焼夷弾の雨=1945年6月5日、米軍撮影

 外に出ようとした瞬間、天井でバリバリと音がした。「焼夷(しょうい)弾が一発、斜めに畳につきささり、すごい早さでグルグル回転し、白熱の火粉をまき散らしている」。一目散に家から飛び出した。

 無数の焼夷弾が降り注ぐ中、狭い路地では右往左往する大勢の人たちの悲鳴と怒号が入り乱れていた。たちまち炎は広がり、立ちこめる煙で見通しが利かなくなった路地をひた走った。

 当時6歳だった西村欣也さんは母、祖父、妹の3人の家族と別れて、安全な場所を探し回った。兵庫駅前の広場にたどり着くと、突然気を失った。足に爆弾か焼夷弾の破片が突き刺さったようだった。

3月17日の空襲で一面焼け野原となった兵庫駅付近。焼け出された人たちがぼうぜんとたたずむ=1945年3月19日、朝日新聞大阪写真部・平谷一登撮影

 翌日、母を待っていた西村さんのそばに、将校のような男性が近付いてきた。「お母さんのところへ連れていってあげるから」と声をかけられ、トラックの助手席に乗せられた。

 「これはお母ちゃんと違う」。無残な傷を負って横たわる目の前の女性が、きれいだった母とはどうしても重ならなかった。

 母は力の無い声で、祖父と妹がいなくなった理由を教えてくれた。生き残ったのは母と自分だけだった。

6月5日

 トアロードの近くで医院を営んでいた北義保さんは午前5時ごろ、警戒警報のサイレンで目が覚めた。

 枕元のラジオのスイッチをひ…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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