「ギンガムを着たみっちゃん」は逝った おそろいを着る妹の「再会」

 「みっちゃん」と呼んでいた姉の満子さんは17歳。肌が白く、母に似て美人だった。

 反対に、四つ下の妹の鵜飼律子さんは、こんがりと焼けた肌だった。父は病気がちで、母が文房具店を営みながら夜は裁縫教室の先生をして、生計を立てた。

 忙しい母の炊事の手伝いをするのは、みっちゃんの役割。母親代わりのようで、妹思いの優しい姉だった。

 1945年の初夏。みっちゃんは家でブラウスを縫っていた。

空襲、地面が揺れた

 カタカタとミシンの音を響かせ、背中を丸めて。できあがった水色と白のギンガムチェックのブラウスをうれしそうに着ていた。

 その1週間後。みっちゃんは女子挺身(ていしん)隊として派遣されていた自宅近くの三国航空機材(現・大阪府豊中市)へ働きに出かけた。

 律子さんは通っていた豊中高等女学校へ。女学生たちの多くは軍需工場などに学徒動員されていたが、背が低い律子さんは動員されなかったのだ。

 昼前、空襲警報が鳴った。

 学校の畑の手入れをやめて防空壕(ごう)に逃げると、地面が激しく揺れた。近くに爆弾が落とされたようだ。米軍による空襲だった。

 軍の飛行場や多数の軍需工場があった豊中は、第2次世界大戦末期、米軍に狙われた。

 空襲が収まった後、学校から歩いて帰った。家屋は焼夷(しょうい)弾で焼かれ、道中には牛や馬の死骸が転がっていた。

 自宅近くの土手に着くと、辺り一帯の家は焼け、「何もなくなっていた」。

 「誰か水を下さい」とつぶやく男性の声が聞こえた。

 持っていた水筒を振ると、まだお茶が半分くらい残っている。3杯飲ませた。

 「ありがとう」。その男性は、力ない声で3回お礼を言ってくれた。

 壁にもたれ、顔中にひどいやけどを負った男性もいた。首の皮膚はただれ、小さい顔がぱんぱんに腫れ上がっていた。

「お父さんこんなになってしもうた」

 「お父さん!」…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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