「三船遭難」の悲劇から76年 慰霊碑守る女性の思い

 終戦直後、樺太(現サハリン)からの疎開船が旧ソ連軍の潜水艦に攻撃され、1700人余が犠牲となった「三船遭難事件」。今月22日で丸76年を迎える。惨劇の舞台となった日本海を眼下に見下ろす北海道留萌市にある慰霊碑は、1人の女性が手入れを続けてきた。女性は足腰が弱るなか、慰霊碑の「これから」を案じている。

 お盆前の12日夕、佐藤知子さん(86)は慰霊碑の花挿しからしおれた花を抜き、新しい花に取り換えた。花が少しでも長持ちするように花挿しに氷と水を入れた。「今日も暑かったよね」とペットボトルの水を石碑にかけ、静かに手を合わせた。沈みかけた太陽が空と佐藤さんの顔を赤く染めていた。

 黄金岬の高台に立つ慰霊碑は、旧ソ連軍の潜水艦攻撃で亡くなった犠牲者を弔い、3本の太い石柱は3隻を表す。正面の黒御影石には「樺太引揚三船殉難 平和の碑」とあり、その下に「佐藤年光書」と刻まれている。

 「夫はこんなに字が上手ではなく、石屋さんがうまく仕立てたのでしょう。でもこの碑のために、夫は寄付集めに奔走したんですよ」

三船遭難事件 1945年8月22日朝、樺太(現サハリン)からの緊急疎開船3隻が相次いで旧ソ連軍の潜水艦2隻の攻撃を受けた。最初に小笠原丸が増毛沖で撃沈。第2新興丸は留萌沖で攻撃を受け、なんとか留萌港に入港。船内で229人の遺体が確認され、行方不明者を含め400人近くが犠牲になった。さらに泰東丸が小平沖で撃沈された。

慰霊碑移転の立役者とは

 もともとの慰霊碑は1962年、市街を一望する千望台に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」として建てられた。125万円の建設費は寄付金でまかなわれ、高さ7メートルの碑の前では毎夏、遺族や関係者で慰霊祭を営んできた。

 やがて碑の老朽化や参加者の高齢化もあり、94年に碑は解体されることになったが、自身が引き揚げ者で全国樺太連盟留萌支部長だった年光さんらが寄付集めに奔走。約800万円を集め、戦後50年の95年秋、同じ場所に新たな慰霊碑を建てた。それから15年を経た2010年秋、観光名所でもある今の黄金岬に移設された。

 佐藤さんは「本当は最初から黄金岬に建てたかったが、市が認めてくれなかった。市長が代わり、やっと遺族たちも訪れやすい場所に移ることができた。これは浜本さんのおかげ」という。

 「浜本さん」は地元の水産加…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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