元東大全共闘活動家で、和光大名誉教授。そんな肩書で紹介されることが多い最首悟さん(83)だが、本人は自分を「星子(せいこ)の父親をさせてもらってる人」と笑う。横浜市旭区の自宅で共に暮らす娘の星子さん(43)は、盲目で重い知的障害があり、一人では水も食事もとれない。そんな娘の誕生で新しい世界が開け、いのちを深く思索する豊かな日々が始まった、と最首さんは話す。頼り、頼られなければ生きられない関係が身近にあるからこそ、見える何かがある。パラリンピック開催の年の初めに、一緒に考えよう。
さいしゅ・さとる 1936年福島県生まれ、千葉県育ち。東大に進み、理学部動物学科でウナギの内分泌などを研究。教養学部助手時代に東大全共闘に参加。その後、和光大教授などを務め、現在は横浜市旭区在住。
最首さんと妻の五十鈴(いすず)さん(77)の間に、4人目の子である星子さんが誕生したのは1976年8月。当時40歳を前に、最首さんは生き方に迷っていた。
68年に始まった東大闘争では、助手という立場にいながら「先進的学生諸君」の全共闘に参加した。目指したのは、義務と責任をわきまえた「近代的個人」の確立。しかし、「自分の社会改革には芯が欠けている」と行き詰まりを感じていた。日本では「責任の所在」は横のつながりの中で曖昧(あいまい)にしておくもので、個人と神が垂直に向き合う西欧流がなじまない。大学の権威を解体しようと教授たちを批判するなら、その予備軍である助手も同罪だ――と。
星子さんが生まれた東京・府中の産院で、担当の女性医師は「ダウン症です。奥さんには2週間伏せておいた方がいい」と“助言”した。「私は泣いたり笑ったり、興奮状態だったそうです」
それまでにも重度障害の子を持つ大学の同僚や、筋ジストロフィーを患う少年と親交があり、障害者との付き合いに「それなりに準備はできている」と思っていた。「しかし、自分の身に起こることとは思っていなかった。やっぱりひとごとだったんです」
一方で「助かった」という思いも確かにあった、と言う。「これでもう自立しなくていいんだ、星子にすがって生きていけば非難されない、と思ったんです」
2週間後に事実を知らされた五十鈴さんには、ものすごく怒られたという。「『何が問題なの、育てるしかないでしょ! 私を、母親をなんだと思ってるの』と。それで目覚めた。決定的に頭も上がらなくなった(笑)」
星子さんの誕生で始まった新しい人生は、「思ってもみなかったこと」が次々に起き、生物学研究に明け暮れた日々や、大学闘争の中心にいたころにはなかった彩りに満ちていく。
大手予備校の駿台で論文を教え始めたのは、一足先にスター講師になっていた闘争の同志・山本義隆氏に誘われて。助手の薄給では子ども4人を養えない。表向きは禁止の「兼業」は、27年間勤めた東大助手を辞める1994年まで続いた。昨年2月には山本氏と共に駿台創立100周年功労者表彰を受けた。「大学解体を叫んだ自分たちなのにねえ」
児童書の書評もこの頃から。最初の1冊は、がんで死を意識した父親が妻の苦労を思って障害のある娘と自殺する物語。美談仕立てを「殺される子の思いはどうなる」と激しく批判した。「一読して、冗談じゃないぜ!と思った。でも、星子が生まれていなかったら、自分も父親の方に感情移入していたでしょう」
障害のある子を「お荷物」と感じる意識が、最首さんになかったわけではない。
「これまで、夫婦どちらも1回…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル