連載「僕の好きな先生1985 ~子どもから学んだ新人時代~」では、新人教員時代の久保敬さんと教え子たちの物語を描いてきました。
番外編として、久保敬さんに、その後の教員生活やいまの学校教育への思いを聞きました。
上下の2回に分けてお伝えします。
――新人として赴任した大阪市内の小学校は、校区に被差別部落がありました。ここでの「解放教育(同和教育)」が教員としての原点になったそうですね。
僕も教員になる前は部落問題に詳しくなかったんです。大学で「部落問題概論」という必修の授業を受けたときも「知っとかなあかんねんな」というぐらいで。熱心な先輩から「同和教育推進校での実習に行こう」と誘われましたが、それも行きませんでした。
――そもそも「解放教育」はいつ始まりましたか。
1969年に同和対策事業特別措置法ができ、政府が部落の生活環境の改善をめざしましたが、それ以前からずっと厳しい生活実態はありました。
いつも学校を休む子は誰なんかと言ったら、部落の子やったと。雨が降ったら、傘や長靴がなくて来られないとか。長いこと来ない子は父親も母親も働きに出てる。小さな子どもは当然、お兄ちゃんお姉ちゃんが面倒見なあかんから、学校に来られない。
一部の先生がそれに気づき、部落の中に入っていきました。休みに家を訪ねて聞き取りをしたり、子どもの勉強を見たりと地域をはいずり回った。それが「靴減らしの教育」と呼ばれるようになったそうです。
――行政用語では「同和教育」ですが、西日本の多くの教育現場では「解放教育」と呼ばれていました。
差別されている人を差別から解放するということじゃない。むしろ差別をする側にいる自分たちを、その差別心から解放するんやと。
新人だった僕は、差別心だけでなく、色んな価値観に縛られてきたなと気づいた。だから個人的に「解放」という言葉が腑(ふ)に落ちたというのもあります。
――具体的には。
「当たり前」から解放された
僕は中高生のころは偏差値に…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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