「公害の原点」とされる水俣病を巡る最初の訴訟の判決から20日で50年を迎える。加害企業チッソの責任を断罪した判決は、患者への補償制度につながり、その後の一連の裁判では国の責任も認められた。だが、症状に苦しみ、患者認定を求める被害者たちの裁判は今も各地で続く。半世紀前の裁判での問いかけが重く響く。
水俣病患者らがチッソを相手に初めて損害賠償を求める裁判(1次訴訟)を起こしたのは1969年。当時、水俣病への理解はまったく不十分だった。
その年の10月、熊本地裁で開かれた第1回口頭弁論。原告の1人として母親に抱かれて傍聴席にいた13歳の上村智子(かみむらともこ)さん(77年に21歳で死去)が「あー、うー」と言葉にならない声をあげた。母親のおなかにいる時にメチル水銀にさらされ、生まれながらにしてしゃべることもままならない重症の患者。だが、斎藤次郎裁判長は即座に母娘に退廷を命じた。
「今なら猛抗議するところです」。だが、当時は退廷を受け入れざるをえなかったと弁護団の馬奈木(まなぎ)昭雄さん(81)は振り返る。「私たちに力がなかった」
■公式確認後も拒まれた補償
水俣で「会社」と言えばチッソを指す企業城下町。裁判を起こすには、かなりの覚悟が必要だった。
チッソは56年に水俣病が公式確認された後も、「原因が工場排水とは確認されていない」と補償を拒み、患者たちは59年12月30日、わずかな見舞金と引き換えに、「将来、原因が工場排水と決定しても新たな補償要求は一切しない」という条件をのまされた。
■■「勝ち目はない」と言われ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル