連合赤軍(連赤)事件で遠山美枝子(当時25)が亡くなったのは1972年1月7日だが、遺族は遺体が発見された3月13日を命日とする。その日の前後、横浜市にある美枝子の墓に毎年、かつての仲間を集めてお経を唱える僧侶がいる。
美枝子が卒業した明治大学2部の後輩、永田泰修(74)だ。美枝子とはサークル連合で一緒になった。永田は成田空港建設反対運動をしていたが、性に合わず組織には所属していなかった。「3歳上で面倒見のいい美枝子さんは何でも相談しやすかった」と振り返る。
美枝子や赤軍派メンバーらと行きつけの阿佐谷のスナックでよく飲んでいたという。
永田が美枝子と最後に会ったのは71年11月。山岳アジトへ行く直前で、赤軍派へのカンパ(支援)を求めに来た時だ。永田が有り金をすべて渡すと、美枝子は「私たちが新しい世の中をつくるから見ててね」と笑った。今もその言葉が忘れられないという。
「仲間の命を奪う革命なんかおかしい」
暴力で社会を変えようとし、行き詰まり、仲間を集団リンチで殺害した連赤事件は「閉塞(へいそく)した今のイジメ問題と構造は同じ」と永田は語る。美枝子や自分が生きた時代を孫の世代にも伝えたいという。
「愛するフー」重信房子へ宛てたエアメール
遠山美枝子がレバノン・ベイルートにいた親友、重信房子へ宛てたエアメールの中身とは?
永田は事件後に会社を起こし…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル