バルト海に面したリトアニアで第2次世界大戦中、外交官の故・杉原千畝(ちうね、1900~86)が発給したいわゆる「命のビザ」で、ユダヤ人難民らは何から逃れようとしていたのか。専門家が米国に所蔵されている当時の1次資料を分析したところ、「ナチスの迫害から」とする見方だけではない事情が浮かんできた。
杉原は当時、独立国リトアニアの首都カウナスで日本領事代理を務めていた。40年7~8月、ドイツと旧ソ連による侵攻で母国を失った主にポーランド国籍のユダヤ人難民らに、日本の通過ビザを発給したことで知られる。外務省の記録では、杉原がこの時期に発給したビザは計2140件とされる。
東京理科大学教授の菅野(かんの)賢治さん(ユダヤ研究)は、当時の実情を知ろうと、歳月を経て出た回想録などの文献を除き、当時の1次資料のみを考証の対象とした。
現地で難民救援にあたったユダヤ人の非政府組織「アメリカ・ユダヤ合同分配委員会」(JDC、本部ニューヨーク、1914年設立)が所蔵する現地代表の報告電文など約3千点の記録を読み解くとともに、当時の地元住民らが書いた日記などを集めた。
その結果、この時期に難民や支援者が抱き、語った危機感は、思想弾圧や資産の没収、信仰の自由の喪失など、ソビエトの全体主義に対するものだったという。一方、反ユダヤ主義やナチスの迫害への危惧を脱出の動機とした言説は見当たらなかった。
ソ連とドイツは1939年8月に不可侵条約を結んでいた。ソ連は40年6月、リトアニアに進駐して軍政を敷き、共産化を進めていた。同年7月21日には「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」が成立。8月3日にリトアニアはソ連に併合され、独立国ではなくなった。
杉原がビザを発給したのは、この時期だった。同じ頃、ドイツはユダヤ人に隔離や国外追放が主体の施策をとり、ソ連などでも反ユダヤ主義は強かった。そのため、カウナスのユダヤ人学校のヘブライ語教師が「体のみを殺すドイツ人の到来の方が、魂まで殺すロシア人の到来よりも、まだしも好ましい」と、意思表示をしたという記録も残っていた。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル