「大東京に声なくなりぬ」 100年前の惨状を呼び覚ます短歌の数々

 8月10日夜、東京・吉祥寺のライブハウス「曼荼羅(まんだら)」。関東大震災100年記念と銘打ち、歌人の福島泰樹さん(80)が「短歌絶叫」のステージに立った。体を小刻みに揺らし、ピアノの音色に乗せて自作の短歌を叫ぶ。

鳶口(とびぐち)が光り検問拘束の 血糊(ちのり)のようなゆうぐれの空

 関東大震災後、朝鮮人来襲の流言が飛び、自警団が検束にあたった様子を詠んだ。生まれる20年前の出来事だが、虐殺された朝鮮人の遺体を目にした知人の体験も取り込み、歌を通して当時の光景を呼び覚ます。「短歌は最も優れた記憶再生装置」と位置づける福島さんは言う。「歌人の仕事とは、記録し、伝達すること。100年経っても俺たちはデマにだまされ差別をし、過ちを繰り返してしまう。現在と地続きなんです。父母や祖父母たちの歴史を忘れてしまってはならない」

 毎月10日、短歌絶叫コンサートを開いて39年。10月に第35歌集を刊行する傍ら、国内外でこれまで1700超のステージに立ってきた。

「火事場泥棒のよう」詠むことへのためらい

 一方、大きな厄災が起きた時、歌を詠むことへのためらいが歌人に生じる場合もある。

 昨年3月、現代歌人協会がコロナ禍をテーマに開いた現代短歌フォーラムで、田口綾子さん(36)はコロナにまつわる歌を作れなかったと吐露。「社会を一色に染めてしまうような大きな出来事があった時、顔のない歌人たちの群れが『新しい獲物だぞ』と群がっていく幻想を見てしまう。自分が歌を残す価値が見いだせない」と語った。同世代の川島結佳子さん(37)も「火事場泥棒のように世の中の不幸につけ込んで短歌を詠んでよいのか、という思いがあった」と打ち明けた。

 田口さんには、2011年3月の東日本大震災発生後、人ごとのように詠まれた歌にショックを受けた経験があった。「被災しなければ詠めないのか」といった議論も歌壇ではあった。コロナ禍では自身も一斉休校後、生徒に別れを告げないまま非常勤講師を務めた学校を去るというつらい体験をした当事者の一人だったが「文字に残すことで、誰かの気持ちを踏みにじってしまう恐れを感じていた」と振り返る。

焼け死にて人のかたちはわからねど…

 10万人を超す死者・行方不明者が出た関東大震災に、歌人たちはどう向き合ったのか。当時の短歌雑誌や歌集にあたった歌人の松村正直さん(53)は「関東大震災後、詠むのをためらうことはなかったのではないか。歌人たちは突き動かされるように震災を詠んでいる」と話す。

 島木赤彦が編集発行人を務め…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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