妹を、母親を殺したのは僕なのか――京都市伏見区の村上敏明さんが、1946年の夏に中国東北部であったことを公表したのは2015年だった。それから8年になる今夏、村上さんは89歳になった。いまも語りつづけている村上さんを再訪すると、記憶をめぐって身もだえる姿があった。
古い友を福岡市にたずねて
村上さんは8月3日、新幹線にのって福岡市の緩和ケア病棟に小林允(まこと)さん(89)をたずねた。
この古い友とのつきあいのはじまりは、中国東北部(旧満州)にあった四平国民学校で同級生になった81年まえの8月までさかのぼる。
村上さんは病室にはいって「元気そうで安心しました」と声をかけた。
小林さんはベッドの端に腰かけて「村上くんのようなね、友だちはいないですよ」とか弱い声でこたえた。
「小林くんは教室で三国志の話をよくしてくれたよね」
「村上くんはおとなしくてめだたなかったなあ」
2人は、軍国主義だった先生のこと、いっしょに読んだ漫画本のこと、今日までの81年間をふりかえる思いを込めたのだろう「おたがい命がけで生きてきたよなあ」ということをぽつぽつと口にしたほかは、2時間15分の面会のほとんどを無言ですごした。
村上さんが病室の窓から見た福岡市の青空は雲が映えていた。
村上さんが「しんどくないか」「横になったら」と声をかけても、小林さんは「まだだいじょうぶ」「もうすこし」と拒んだ。これまでほとんど毎日のように電話で語りあっていたから新しい話題も特段なかった。2人は、いっしょにいる時間をただただ慈しんだ。2人の間には2人だけに聞こえる歓談が確かにあった。
妹と母親に手をかけた記憶
病院から退出して村上さんは「小林くんにもしものことがあったら、僕の記憶は消えてしまうんだ」と言った。
村上さんの「僕の記憶」――僕は、4歳になる年の1938年に京都市から旧満州にわたった。京都市職員だった父が日本の国策会社・南満州鉄道の関連会社に転じるからだった。現地の学校で親友になったのが小林くんだ。
1945年の旧ソ連の参戦、日本の関東軍にとられた父の不在、日本の敗戦・棄民政策が重なって、母、長男の僕、2人の弟と1人の妹の一家5人が旧満州の地にとりのこされた。
1946年の7月のことだ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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