「対馬丸」生存者の平良啓子さん死去 長年「語り部」続ける

棚橋咲月

 太平洋戦争中、米潜水艦の攻撃で沈没し学童784人を含む計1484人が犠牲になった疎開船「対馬丸」の生存者で、語り部として長年証言を続けてきた平良啓子(たいら・けいこ)さんが29日、急性大動脈解離で死去した。88歳だった。葬儀は8月2日正午から沖縄県大宜味(おおぎみ)村喜如嘉(きじょか)232の2の大宜味村火葬場で。喪主は長男基(もと)さん。

 9歳だった1944年8月、国の疎開方針に伴い沖縄から長崎に向かうため乗船した対馬丸が、鹿児島県のトカラ列島沖で米潜水艦の攻撃を受けて沈没。いかだで6日間漂流した後、流れ着いた無人島で救助された。半年後に戻った沖縄で沖縄戦が始まると、避難生活を余儀なくされた。

 戦後「命の大切さを教えたい」という強い思いから、小学校教諭となった。沈没事件には箝口令(かんこうれい)が敷かれ、戦後になっても語れない生存者がいるなか、平良さんは早くから語り部として体験を伝えた。84年には「海鳴りのレクイエム 『対馬丸そうなん』の友と生きる」を出版した。今年も各地を回り、「戦争は絶対に許されない」と改憲に反対する活動にも携わった。(棚橋咲月)

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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