「心に寄り添う」言葉の裏、市役所の留守電が記録した声

 沖縄県宜野湾市の桃原(とうばる)修さん(61)は、25年前の父親の二つの表情を覚えている。

〈普天間飛行場返還合意〉1995年9月、沖縄で米兵による少女暴行事件が発生。翌月、米軍基地の整理縮小を求める県民大会があり、8万5千ともいわれる人が集まった。危機感を抱いた日米両政府は96年4月12日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の「5~7年以内」の返還で合意。しかし、県内移設が条件とされ、名護市辺野古が移設先に。両政府は13年に返還時期を「22年度以降」と合意した。しかし、沖縄では辺野古移設に反対の声が強く、辺野古の海では軟弱地盤の存在も判明。工期は延長され、返還時期は早くても30年代半ばとの見通しが示されている。

 夕刻。父は夕食前から上機嫌でビールをあけ、飲み干した。自宅から徒歩10分ほどにある米軍普天間飛行場の返還に日米が合意した、とのニュースが届いたからだ。

 しかし、数カ月後。父は「またか」とつぶやき、絶句した。返還は、県内移設の条件付きだと、日米両政府が結論づけていた。

 桃原さんの父、正賢(せいけん)さんは当時の宜野湾市長。戦後、米軍占領下の土地接収を目の当たりにした。本土復帰後の1981年、隣町にあった基地が返還されるのに伴い、部隊の一部が普天間に移された経緯も知る。そんな父は2004年、普天間返還に立ち会えないまま、81歳で亡くなった。

 死去の2カ月後、普天間に隣接…

【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment