11日午前6時半、宮城県東松島市の菅原節郎さん(70)は、仏壇の横に飾られた妻と息子の写真に語りかけた。「きょうで3654日。11年目を迎えたよ」。2人のことを忘れた日はない。そう伝えたくて、この10年間、震災からの日数を毎日、告げている。
あの日、強い揺れのあと、家にいた妻の郁子さん(当時53)と長男の諒(りょう)さん(当時27)に、足が不自由な近所のおばあちゃんを連れて逃げるよう頼んだ。市議だった自分は、他に逃げ遅れた人がいないか、車で見守りへと向かった。
その途中、車が津波で浮いた。すぐに車外に出て、足が水につかるなか、20メートルほど先にある知人の家の2階に逃げ込んだが、妻と息子に何度電話をかけてもつながらない。地区一帯で約500人が命を落とした。2人と会えたのは12日後。遺体安置所でだった。
「一緒に逃げていれば、2人とも生きていたはずだ」。いまも悔いている。
あれから10年がたった市の追悼式。遺族代表として述べた言葉は、あふれる涙で途切れ途切れになった。「我々が味わった、救える命があったかもしれないという無力感、すべてを失った絶望感、一縷(いちる)の望みが断ち切れた嘆き、悲しみ、口惜しさ、申し訳なさ、自責の念はこの先も消えることはないと思います」
もう一つ、多くの人に伝えたいことがある。
当時、市内では親を亡くした子…
2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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