「急に国元へ。心配…」 加藤清正が池田輝政の「母気遣う書状」発見

 豊臣秀吉恩顧の武将ながら、関ケ原の戦いでは石田三成と対立して東軍にくみした熊本城主・加藤清正(1562~1611)が、姫路城主・池田輝政(1564~1613)の母の容体を気遣う書状が見つかった。兵庫県たつの市の民家から寄贈の相談を受けた同市立龍野歴史文化資料館が公表した。

 書状は縦36・4センチ、横53・7センチで、関ケ原の戦いがあった1600(慶長5)年の後の03年か04年に書かれたとみられる。宛先の「池吉左様」は輝政の弟で鳥取城主だった池田長吉と考えられる。

 書状の冒頭、輝政を通称の「三左衛門殿」と表し、「急に国元へ帰ることになったとのこと。心配でしょう」とねぎらう。母について「容体が悪くなられたとのことで、使者を遣わし見舞いの書状を申し入れます」と気遣っている。

 末尾には花押(サイン)、六月廿(にじゅう)九日の日付が記されている。

 資料館の新宮義哲館長によると、輝政の母は慶長9(1604)年6月29日に死去しており、その前年か、まさに亡くなった日に記された可能性もある。

 書状は参勤交代をする大名らが寄港地にしていた、たつの市御津町室津にある大名が泊まった宿の流れをくむ家から昨秋、寄贈の相談を受けた。この家では江戸時代に姫路城に出仕していた女性がいたとの話が伝わっているが関連は不明という。資料館と熊本県宇土市教育委員会の大浪和弥学芸員が調査した。文面は代筆とみられるが、花押は清正が書いた本物という。

 新宮館長は「石田三成と対立して同じ東軍に属した武断派の清正と輝政が親しくしていたことを表す新史料」と話す。大浪さんは、加藤清正は慶長9年前半は京都や大坂などに滞在しており、そこで輝政に会ったか、母親の話を聞いた可能性がある、とみる。「武断派のイメージがある清正ですが、書状は多く几帳面(きちょうめん)な性格だったと思います。池田家宛ての書状はほとんどなかったので、日常的につながりがあったことが分かりました」と語る。

 書状は21日から資料館で始まる企画展「街道の風景~宿場町に伝わったもの~」で公開される。(雨宮徹)

【書状の大意】

 三左衛門(池田輝政)殿が急に国元へ帰ることになったとのこと。ご心配のことでしょう。お母様の容体が悪くなったとのことで、使者を遣わし見舞いの書状を申し入れます。暑い時期ですので、老足の煩い、油断なき養生が大事でございます。引き続きご養生ください。謹んで申し上げます。

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment