JR中央線に乗って甲府駅に着くと、駅の目の前に城跡の立派な石垣が見える。甲府の戦国武将といえば武田信玄だが、この城は信玄が残したものではない。武田氏が滅んだ後に豊臣秀吉の命で築かれ、今は公園になっている。
公園を散策していると、とがった塔の形をした石柱が目に飛び込んでくる。花崗岩(かこうがん)でできていて、高さ約18メートル。天をつくようにそびえ立っている。
桜のつぼみがふくらんできた3月11日、塔の前で式典がとりおこなわれた。「恩賜林御下賜(おんしりんごかし)110周年」の記念式典である。
「恩賜林」とは山梨県土の35%を占める県有林のことで、富士山や南アルプス連峰、八ケ岳の周辺など広い範囲にわたる。1911(明治44)年に明治天皇から下賜、つまり譲渡された。石柱は下賜に対する「謝恩碑」で、20(大正9)年に完成した。
式典では、白手袋をはめた長崎幸太郎知事(52)が、明治政府からの「御沙汰書」のレプリカを恭しく広げて奉読した。原文は漢字だらけだが、こんな内容だ。
「明治天皇は、山梨県が毎年のように水害をこうむり、復興もままならない様子を悲しまれ、特別に御料林を県有財産として下さることになった。今後はよくこれらの森林を経営し、国土を保全する手立てを確立させなさい」
3月11日は東日本大震災が起きた日だが、下賜に感謝する山梨県の式典は震災前から続いている。
下賜のきっかけは水害だった。山梨県内では明治時代の中ごろから水害が頻発するようになった。特に07(明治40)年の大水害は、山梨を取り囲む山々が崩壊して岩石と土砂を大量に含んだ濁流が下流を襲い、死者233人、流失家屋5千戸に及んだ。当時の知事も外出先で被災し、県庁に帰還するまで3日かかった。
世界遺産・富士山のふもとで「山梨の乱」が起きている。富士五湖の一つ山中湖畔にある別荘地をめぐり、別荘地を経営する富士急行に対して、土地を所有する山梨県がこれまで通りには貸せないと主張したのが発端だ。なぜ乱は起きたのか、どこへ向かうのか、富士山麓(さんろく)はだれのものなのか。連載の第3回です。
被害を大きくした要因は山林…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル