「悲しむことは、愛すること」傷ついた人と人 絆を守り育む優しい山

【動画】事故直後の現場を取材した記者(62)と事故後に生まれた記者(26)の2人が38年前の日航機墜落現場を訪れた

 群馬県上野村の日航機墜落現場「御巣鷹の尾根」に続くアクセス道の終点からは、沢に沿って登山道が続く。緑陰をしばらく歩むと、登山道は尾根への斜面を縫う急坂となっていく。

 急坂の入り口近くに、プレハブ小屋が2棟建っている。現場の捜索時に群馬県警が建て、事故1年後に日本航空が譲り受けた。

 当時の御巣鷹は、捜索や取材でできた踏み分け道しかなく、慰霊に訪れる遺族がけがをする恐れもあった。

 日航貨物本部の部長だった故・岡崎彬さんや社内の登山愛好会「山行会」メンバーらが小屋に泊まり込み、斜面に新たな登山道を何本も設けたり、手すりや階段をつくったりして、遺族の慰霊登山を支えた。

 いまも年に4回、社員十数人が御巣鷹に入り、裏方に徹しながら登山道の整備や墓標の保全など、作業を続ける。

連載「御巣鷹のバトン~サイドA」(下)

1985年8月12日夕、日航ジャンボ機が「御巣鷹の尾根」に墜落しました。記者2年目の私(62)は取材で受けたショックで御巣鷹と距離を置いてきました。事故から24年後、再び登り始めると、御巣鷹の別の一面が見えてきました。

 小屋周辺から尾根までの斜面には、そこかしこに墓標が並ぶ。尾根に向かう道から分岐し、沢の上流方面に向かう道もある。

 その道を少し進んだあたりが、38年前に生存者4人が見つかった現場だ。沢の名は「スゲノ沢」という。

 事故機は尾根に激突して炎上し、機体後部がスゲノ沢へ崩れ落ちた。

 ばらばらになった機体の破片などで沢は埋まったが、その隙間に奇跡的に生存空間ができた。生存者の証言から、事故直後はさらに多くの人たちが生きていたことがわかっている。

 この夏、スゲノ沢で夏空を見上げた。

 事故当夜、自衛隊も報道もヘリを飛ばしていた。その音を聞き、助けを信じ、待っていた人たちが、ここにいたのだ。

 近づくことを避けていた御巣鷹の尾根を再訪したのは、2009年の3月だった。雪のため、アクセス道は閉鎖されていた。車止めのゲートをくぐり、徒歩でひとり尾根をめざした。

御巣鷹に集う人々

 慰霊碑「昇魂之碑」の前に立ち、話しかけた。

 亡くなった人たちの遺品から…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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