ペンを握る右手の指は曲がったままだった。背骨の圧迫骨折もそう。70年以上、机に向かったからだ。亡くなる直前まで書いた。
「88歳が人生で一番いいとき、あとは老いてぼろぼろよ」と語っていたように80代後半から何度か生死をさまよった。だが瀬戸内寂聴さんは不死鳥のごとくよみがえった。2015年春も骨折やがんを乗り越えたばかり。このとき92歳11カ月。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)で法話し、力強く言った。
「命がある限り書く」。書くことへの意欲を失わない作家の情熱に打たれ、連載エッセー「寂聴 残された日々」を持ちかけた。毎月届くのは万年筆の手書き原稿。「遺言だと思って書いている」と言ってくれた。ペンを握ったまま、机の上の原稿用紙にうつぶせになって死ぬことが理想だった。
記者(41)は瀬戸内寂聴さんが2014年に背骨の圧迫骨折やがんで闘病していたころに取材を始めた。朝刊の連載エッセー「寂聴 残された日々」を持ちかけ、毎月、京都・寂庵(じゃくあん)で開かれる法話を聞いた。国会前での安保法制への抗議、岩手・天台寺での青空説法、各地であった著名人との対談などにも同行した。平成が終わる19年には「愛」をテーマにインタビューした。7年に及ぶ取材で、プライベートでも懇意にして頂いた。
なぜ書き続けるのか聞いたことがある。「まだ、お母さんともしゃべれない幼い娘を捨てて文学の世界に飛びこんだから、書き続ける責任がある。私は幸せになっちゃいけないの」
ペン一本で生きた寂聴さんは戦後の自立した女性の先がけだ。そこには戦争体験がある。防空壕(ごう)で焼け死んだ母のことを、よく語った。15年に安保法制に反対して京都から国会前に行くと言いだしたのは抗議集会の2日前。死も覚悟した。「愛する人と別れること、愛する人が殺されること、それが戦争。命ある限り、戦争の恐ろしさを伝える」
普通の人が嫌いだった。「だって面白くないじゃない」。常識にとらわれない奔放さが人をひき付けた。肉と赤ワイン、日本酒を囲むたびに出てくるのはビッグネームばかり。川端康成、三島由紀夫、美空ひばり、勝新太郎、岡本太郎、美智子さま……。寂聴さんしか知り得ないエピソードが満載だった。
多くの人に愛されたのは文学や仏教の知識、波乱に満ちた人生経験から紡がれる言葉に加え、尽きることのない好奇心や人間味あふれた愛らしさではなかったか。あらゆる政党から選挙に出ないかと誘われたが、すべて断った。政治とは距離を置き、文化人を貫いた。
若者にも期待した。晩年は66歳離れた女性秘書と過ごし、ケータイ小説を書き、スマホも使いこなした。「青春は恋と革命」「100冊の本を読むより1回の恋愛」と語った。
幼いときは体が弱かった。母に言われ、豆ばかり食べた。51歳で得度したのは1973年11月14日。仏教にこだわったわけではない。カトリックの洗礼を受けていた遠藤周作に頼み、神父を紹介してもらった。その神父が逆に寂聴さんに悩みを打ち明け始め、キリスト教はやめたそうだ。
僧侶としての務めだからと、コロナ禍の前まで数十年間、寂庵で法話を続けた。東日本大震災など災害のたびに現地に飛び、天台宗の開祖・最澄の言葉「忘己利他(もうこりた)」を挙げた。「己を忘れ他を利する。人を幸せにすることこそ、もっとも高尚」と説いた。
自らの恋や不倫も隠さず、名言も数知れず。「恋は雷に打たれるようなもの」「あらゆる世界の名作は不倫」「生きることは愛すること。愛することは許すこと」。好きな1字はもちろん「愛」。その愛とは何か聞いた。
「愛する人と2人、窓の外を…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル