「ヤマトンチュ(本土の人)になりたくて、なり切れない心」
1985年、朝日新聞記者に「沖縄の心とは」と問われ、こう表現した戦後沖縄の保守政界の重鎮がいた。78~90年に県知事を3期務めた故・西銘(にしめ)順治(じゅんじ)だ。
三男でいま沖縄・北方担当相を務める西銘恒三郎(こうさぶろう)は、父の言葉について「肌感覚で分かる世代だとは思う。コンプレックスみたいなものかな」と話す。復帰50年を機にインタビューし、西銘親子にとっての沖縄振興について聞いた。
順治は日本の最西端、与那国島で生まれた。米軍統治下の沖縄でローカル紙社長、那覇市長を務め、72年の本土復帰にあたり衆院議員に当選。知事に転じた。
経済や米軍基地問題で本土との格差是正を訴え、85年には県知事として初訪米して基地縮小などを国防総省に要請。県立芸術大学を創設するなど伝統文化の振興にも力を注いだ。
恒三郎は84年から数年間、知事秘書を務めた。政府主導の沖縄振興をめぐるやり取りで苦悩する父の姿を垣間見ていた。
「あの頃は知事よりも官僚が強かったんだよね。衆院議員をした後だったからよけいに感じたのかもしれない。なかなか思うように進まなくて、酒が入った後、『糞(くそ)の役にも立たぬ官僚どもが威張りやがって』とぼやく時もあった」
本土復帰前後は、恒三郎は那覇市の高校生。「1年365日の野球馬鹿だったが、高校時代に知人の家族が米軍関係者の車にひかれて亡くなった」と振り返る。県議から国政へ転身した当初は、自民党の部会に出ると「話し方がおかしい」という視線を感じた。
ただ、「ウチナーンチュ(沖…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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