1999年10月17日。東京都武蔵村山市役所に4~5人の来客があった。日産自動車副社長ら一団だ。市長室で迎えたのは志々田浩太郎氏。27歳で初当選したことでも知られる若手市長だった。
あいさつの要件を聞かされていなかった志々田氏に、副社長はいきなり本題から入った。「市内の工場を閉鎖する」。志々田は驚いて「急に言われても困ります」と食い下がったが、先方は姿勢を変えなかった。「あまりに一方的だった。『合理化』の一言で押し通された」。そう振り返る。
ざわついた市役所
「日産リバイバルプラン」。武蔵村山を含む国内5工場を閉鎖してグループの人員2万1千人を整理するという大リストラ計画だ。指揮を執ったのは、仏自動車大手から日産に乗り込んできたばかりのカルロス・ゴーン氏。会社法違反などの容疑で逮捕され、今、国外逃亡中の身だが、当時は、欧米流の合理主義が注目されてもいた。日本での手始めの仕事の一つが、この村山工場閉鎖だった。
副社長の訪問後、市役所がざわついた。「市長が、日産車に乗らないと怒っている」といううわさが広がったからだ。村山工場はそれほどに、武蔵村山市の「顔」だった。東京ドーム30個分の140万平方メートルの工場は市の真ん中にあった。62年、プリンス自動車工業(66年に日産に吸収合併)の工場として作られ、日本のモータリゼーションの青春期を支えた。スカイライン、ローレル、マーチ。日産を代表する車をつくってきた。
「日産通り」の愛称が付いた工場正門の通りには飲食店が立ち並んだ。70年代には7千人が勤め、昼食時は店が混み、外でそばをかきこむ人もいたという。今、閉鎖前から残る店はほとんどない。
工場の名残の一つが、市役所…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル