「映画館の街」だった渋谷の姿とは 通りの名前にも 3月まで企画展

 多くの市民にとって娯楽の代表施設だった映画館の観点から、渋谷の歴史をたどる企画展が、渋谷区郷土博物館・文学館で開かれている。区内には最も多いときで30以上の映画館があり、渋谷は「映画館の街」とも呼ばれたという。収集家から多数の資料が寄せられ、企画展が実現した。

 明治のころの渋谷は、かつての大山街道の一部、道玄坂を中心に発達した。このため初期の映画館は、駅周辺というよりも当時盛り場だった道玄坂一帯に多く誕生した。

 1917年(大正6年)に開館した「渋谷劇場」もその一つ。もとは明治時代にできた「豊沢亭」という芝居小屋だった。当時は芝居小屋や寄席から転身した映画館が珍しくなかった。

 太平洋戦争空襲により、区内の映画館も多くが失われたが、戦後の復興とともに再び増えた。このときは渋谷駅周辺が開発の中心となり、56年(昭和31年)に駅の東側にできた東急文化会館には「パンテオン」など四つの映画館が入り、渋谷を象徴する施設となった。

 ピークの1960年(昭和35年)には区内で33館を数えた。現在の文化村通りはかつて、映画館「渋谷大映」にちなんで大映通りと呼ばれた。「それだけ、映画館は街にとって大きな存在でした」と、企画展を担当する田原光泰学芸員は話す。この場所には現在、MEGAドン・キホーテ渋谷本店がある。

収集家が多数提供

 出展される資料約200点の…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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