78年前、「東洋一」と称された兵器工場は空襲に見舞われ、若者ら多くの命が無残に失われた。終戦の約1週間前のあの日の空襲で何があったのか――。減りゆく空襲体験者らの記憶を聞き取り、次代に伝えるために書き残していく活動を続ける人たちがいる。
1945年8月7日午前10時過ぎ、愛知県豊川市の上空に100機を超える米軍のB29爆撃機が飛来した。狙いは、186ヘクタールの敷地に海軍の兵器工場が集積する「豊川海軍工廠(こうしょう)」だ。250キロ爆弾が3千発以上落とされた。市によると、2500人以上が亡くなったという。
「爆弾がどんどん落ちてね。バーンと落ちると大きな穴が開くでしょう。私はその中へドドドと入っちゃって、そこからまた這(は)い上がって逃げたりしてそれが思い出です。そしたら隣の人はもう首がない、足がない」
静岡県内の高等女学校からの動員学徒だった浜松市在住の女性(94)は、あの日をそう振り返る。
女性の証言は市民グループ「豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会」が今年3月に発行した会報「けやき」に掲載された。
「77年かけてやっと書けた」という体験記
今年2月に亡くなった東京都…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル