「死ぬことばかり考えていた」ALS患者の医師を絶望から救ったもの(ハフポスト日本版)

自分の足ではもう、歩けない。徐々に手も動かせなくなり、聴診器すら持てなくなった。 「もう終わりだ、と思いました。訪問診療の医師として働くことが生きがいでしたから。走っている車に、車椅子で飛び込んでしまいたい。毎日死ぬことしか考えられなくなりました」 9年前、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断を受けた太田守武さん(49)。現在は人工呼吸器を装着し、声を発することができない。家族や介助者を通じてハフポストのインタビューに応じ、京都のALS患者の嘱託殺人事件に「ただただ悲しく、言葉もない」とやり切れない心中を明かした。 安楽死を望んだ女性に、訪問診療医の道を断たれ、「死」に向かおうとしたかつての自分を重ねる。絶望から救い出してくれたものは、何だったのか。

■天職だった

太田さんは理工学部の大学生時代、義足や義手の研究をしていた。母が運営する障害者の作業所で、お年寄りが「福祉に明るいお医者さんがいてくれたらいいのに」とこぼすのを聞いた。 「体に電撃が走ったみたいで、これこそ自分がやるべき道だと直感しました」 理工学部を卒業後、医師を志して大分大学の医学部を受験し、入学。2006年から千葉県の総合病院に勤務した。病院で往診をした際、重度障害者たちが自宅で暮らせるよう、医師や看護師、ヘルパーなど様々な職種がチームで関わる訪問診療の魅力を知る。「患者さんやご家族が緊張してしまうから」と、自宅訪問の際は白衣を着用しなかった。 訪問診療にやりがいを感じていた11年ごろから、足を動かしにくくなった。3年後、ALSと診断を受ける。長男は2歳だった。 「息子を抱き抱えられないことが本当にショックでした。息子が大きくなったら野球を教えたい、キャッチボールもしたい。でもそれはできないんだと。父親として何ができるかを考えた時、絶望しました」

■主治医の一言で光が見えた

日本ALS協会のウェブサイトなどによると、ALSは体を動かすための神経系が変性する進行性の指定難病。神経の命令が特定の筋肉に伝わらなくなり、手足やのど、舌などの筋肉がだんだん縮んでいく。一方で、知能や目の動き、五感などの機能は失われず維持される。原因が分かっていないため、有効な治療法がほとんどない予後不良の疾患と考えられている。厚生労働省の統計によると、全国のALS患者数は9805人(2018年度末時点)。 診断を受けてから、太田さんは死ぬことばかり考える日々を送った。生きる意欲を失った太田さんを救ったのは、主治医の一言だった。 「医師として、ALSの患者として、先生にしか話せないことがあるはずです」。講演の誘いだった。 太田さんは壇上で、「難病患者が地域の中で生きること」をテーマに自身の体験を語った。すでにマイクを自力で持てなかった。介助者が持つマイクに、かすり声を振り絞って吹き込んだ。涙を流して聞き入る人たちの姿が見えた。「自分にもできることがあると確信しました」 家族や友人、医療・福祉従事者の仲間の励ましもあり、2017年には、NPO法人「Smile and Hope」を設立。無料医療相談や、看護師・介護士らと訪問介護事業に取り組んでいる。 「患者さんとその家族に、医療従事者たちが安心で安全なケアを提供し、医療と福祉を融合する。そのためのコーディネートができることが、今の私にとって生きる喜びです」

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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