「死の行進」加害・被害の立場超えて 日豪の遺族ら初の合同慰霊祭

 アジア・太平洋戦争中、過酷な長距離移動を強いられ、多くの犠牲者が出た「サンダカン死の行進」と呼ばれる事件を生き延びた豪州兵の遺族と、当時の現地司令官だった日本軍人の遺族らが集まり、この夏、初めて合同の「ボルネオ慰霊祭」を開いた。憎しみや悲しみ、苦悩や痛みを抱えてきた遺族らが共に語り合い、和解と癒やしを探っている。

 7月31日昼過ぎ、横浜市鶴見区の総持寺。読経が響き渡る中、豪州、マレーシア、英国からの9人を含む約30人の参加者が焼香。並べられた10人の遺影に手を合わせた。その後、約2時間、それぞれの思いを語り合った。

 旧日本軍が占領したマレーシアのボルネオ島。豪州の戦争博物館や研究者によると、その北東部にあったサンダカン捕虜収容所にはもともと約2500人の豪州、英国両軍の捕虜が収容されていた。シンガポールの収容所から移送され、飛行場建設のための強制労働に従事させられていた。

 しかし、重労働や栄養失調、虐待などで次々に死亡。さらに、1944年には連合国軍の空襲が激しくなり、日本軍は1945年1月から3回に分けて、比較的体力のあった捕虜から約1千人を約260キロ離れたラナウに徒歩で移動させた。

戦後まで生き延びた捕虜は6人だけ

 十分な食料もないまま、山岳…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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