1959年、沖縄――。旅行会社「沖縄ツーリスト」の取締役だった30代の宮里政欣さん(91)は、たびたび米軍に呼び出されていた。
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「この人、あなたとどういう関係?」
書類を示されながら決まって問われたのは、日本からやってくる旅行客のことだった。宮里さんは毎回、得意な英語で答えた。何度も何度も呼び出され、宮里さんはこんな言葉を投げつけたこともある。
「もういいだろ。何で彼らがくるかわかるだろ」
沖縄の地をどうしても踏みたい
日本が戦争に負けて十数年後のこと。52年のサンフランシスコ講和条約発効で米軍占領下から脱した日本社会は、高度経済成長期のまっただ中にあった。熱海の温泉など、国内団体旅行もすでにブームになっていた。
しかし、海外への自由旅行は、強い外貨の流出を防ぎたい日本政府の政策で許されていない時代。その「海外」には、日本から切り離され、米軍占領下に置かれていた沖縄も含まれていた。
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沖縄に行きたい。沖縄の地をどうしても踏みたい。あの人に会いたい――。当時の日本各地には、そうした思いを抱く人たちが少なからずいた。
沖縄に渡るためには、その目的について日本政府に認めてもらい、さらに、沖縄での身元引受人を確保しなければならなかった。家族や親戚がいる人をのぞけば、沖縄に縁がある人は限られ、大きなハードルとなっていた。
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旅行会社に勤めていた宮里さんは、50年代半ばごろから、沖縄を訪れる団体の様子を少しずつ目にするようになっていた。
58年、宮里さんは友人とともに新たな会社を立ち上げる。新会社「沖縄ツーリスト」の設立だった。
しかし、その頃、宮里さんが手がけていたツアーは、リゾートとして親しまれている今の沖縄観光から想像もつかない内容だった。
海の前で「死んでもいい」。号泣しながら「サレコウベから離れたくない」。命をかけて向き合った「観光」の実態が見えてきます。
会社設立からまもなく、沖縄ツ…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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