あの日から1カ月ほどたった頃だろうか。45歳だった英文学者の中島俊郎さん(73)は、神戸市東灘区の岡本を歩いていた。なれ親しんだ街の風景はもう、そこにない。
崩れた自宅で片付けをしていると、固定電話が鳴った。受話器をとると、友人の声が聞こえた。
電話口で言葉が出てこなかった。
「……」
沈黙を続けていると、電話の相手は優しくこう言った。
「泣きたいときは、涙がかれるまで泣きなさい」
阪神・淡路大震災が起きるまで、充実した日々だった。自らも学んだ甲南大の教授になって2年目。友人や学生に誘われて飲み会にもよく行った。
1995年1月16日も、知人の祝い事で日付が変わるまで飲んでいた。家に帰ってウトウトしていた17日午前5時46分。突然、足蹴りを食らったような揺れに襲われた。
家からはい出すと、あるはずの家があちこちなくなっていた。土煙の中、パジャマ姿でうろうろする人たち。近所の公会堂は遺体であふれていた。
妻と4人の子の無事を確認してすぐに近くの実家へ向かい、柱に挟まれた母を見つけた。雨戸にのせて近所の内科に運んだが、死亡が確認された。
「心のケア」に光があたった阪神・淡路大震災。暗いトンネルにいた中島俊郎さんに、心地よい距離感で伴走してくれる友が現れます。
「お金で被災者の気持ちが…」 錯乱し吐き捨てた言葉
コールタールのような黒々と…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル