「淀城」関連の護岸か、京都の桂川で遺構出土 江戸初期には川幅拡張

 桂川の下流部が江戸時代初頭の大規模な治水工事によって、現在の姿に近い形になったことがわかった。京都市伏見区の桂川西岸で江戸~明治時代の護岸遺構などが出土したと、京都市埋蔵文化財研究所が23日発表した。文献資料がほとんどない桂川の治水事業を知る上で貴重な発見だという。

 調査をした淀地域は宇治川木津川・桂川が交わる合流点で、古くから水運を利用した交通や軍事の要として栄えてきた。調査した桂川西岸からは、江戸時代前期・後期、明治時代の護岸遺構や、水の流れの方向を変えたり、勢いを弱めたりするための「水制」が出土した。江戸時代初頭には、少なくとも約10メートル川幅を広げる工事をしているなど、治水工事の具体的な様相が明らかになった。

 当時の護岸構築材には舟材が転用されており、川と共に生きてきた地域の特徴を物語る遺物も出土した。泥の堆積(たいせき)状況などからみて、桂川の東側の河岸は現在の河岸よりもさらに東側に位置していたこともわかった。現在の桂川の姿に近い形になったのは江戸時代前期だという。

 研究所の柏田有香調査係長は、豊臣秀吉が宇治川を付け替えて太閤堤を設置した安土桃山時代の治水事業を発端にした淀川水系の河川整備の一環である可能性があると指摘する。「桂川については資料がこれまでほとんどなかったため、初めてその実態の一部が明らかになった」と話す。

 さらに、調査地の近くにあった淀城との関連も注目される。江戸時代初頭の治水工事は、元和9(1623)年松平定綱が淀城を築城した時期に近いことが出土した土器の年代から判明している。

 京都産業大の鈴木康久教授(…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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