男が、この仕事をしてもいいのだろうか。
ちらっとかすめた葛藤は、あっという間に吹き飛んだ。子どもたちといられるのがうれしくて、毎日わくわくした。
リヤカーを改造した「お散歩カー」に1歳児を数人乗せて、池や空き地を散歩した。一緒に虫をつかまえ、赤や黄に色づいた葉っぱを拾った。食事の世話、抱っこ、おむつ替えは、何の違和感もなく自然とできた。
保育士がまだ「保母」と呼ばれ、男性が資格を取れなかった1973年の秋。当時19歳だった入舩益夫(いりふねますお)さん(67)は、東京都内の保育園の先生になった。
「保母に準ずる」
新聞の求人に載っていた「保母募集」の案内を見つけて勧めてくれたのは、母だった。男性でも面接が受けられるか電話で尋ねると、「いいですよ」と言われたのだという。
新潟県内の高校を卒業して都内の大手電機メーカーに就職したが、なじめずに半年で退職。両親と暮らしながら、早く自立したいと焦る半面、やりたいことが見つからずに悩んでいた時だった。
思い返せば、子どもの頃は、正月やお盆に年下のいとこが7人ほど集まり、朝から晩まで一緒に遊び、世話をした。いとこが帰る時は、いつもさみしくて離れがたかった。母はそんな自分をよく理解してくれていたのだと思う。
面接では、女性の主任ら数人と向き合う形で座った。緊張して何を話したかはもう覚えていない。他にも面接を受けに来ていた女性はいたと後で聞いたが、採用されたのは入舩さんだけ。約20人いた職員のうち、男性は1人だった。
いまだに男性比率が3%台という保育の現場で半世紀近くを過ごしてきた入舩さんは、「子どもたちには深く感謝している」といいます。背景には「大人の嫌な世界」に心を痛めてきた幼少期の記憶がありました。
更衣室やトイレは女性用しか…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル