核なき世界をめざすにはどうすればいいのか、様々な方に聞くインタビュー。最高齢の女性映画監督の山田火砂子さん(91)に聞きました。
私が18歳の頃に入ったバンドのメンバーに、広島で被爆した「のぶこちゃん」がいました。
原爆投下の朝、たまたま女学校を休んで家にいた。母と一緒に助かったけど、妹は亡くなった。戦後、上京して歌い手をめざしていました。
ある日、私が東京大空襲の話をしたのね。「B29がこんなたくさんやって来て」って。そうしたら彼女は「そんなのたいしたことない!」って怒ってね。私も「何よ、あんた! 私だって必死に生き延びたのよ」って、けんかになった。
東京都は米軍による空襲を100回以上受けました。私は13歳だった1945年5月25日、新宿区下落合の自宅から焼け出されました。
火の海の中、水でびちゃびちゃにした布団を頭にかぶって逃げました。乾いたら、周りの火が移るかもしれない。通りすがりのおじさんがどこからか水をくんで来て、私に一生懸命かけてくれた。いまだに花火を見るのも音を聞くのも怖い。
「広島と長崎に新型爆弾が落とされた」「空を見上げるときは布を用意しろ」「白い物を頭からすっぽりかぶれば怖くない」――。
空襲から2カ月半後、そんな…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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