大阪市東住吉区の山科和子さんが今月27日、100歳の誕生日を迎える。長崎で原爆に遭い、両親や弟妹を失った。「ヒバクは私の原点」。その一心で、国内外で核の脅威を語ってきた。「ひとりじゃない。生き残った被爆者には使命がある」。先達の被爆哲学者の言葉を胸に歩んできた。
ひとりでも、ひとりぼっちじゃない
今月12日、記者は、山科さんが代表を務める「チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西」の関係者とともに、サービス付き高齢者向け住宅で暮らす山科さんを訪ねた。一足早いバースデーカードを受け取った山科さんは「みなさんが良くしてくれるから、ひとりぼっちでもね、自分ではひとりぼっちとは思わないよ」とほほえんだ。
77年前の1945年8月9日、23歳だった山科さんは長崎で原爆に遭った。英文科で学び、旅行会社に勤めていた。父親は国の官吏で長崎駅長。一家で長崎に移り住んで数年がたっていた。
被爆時は爆心地からやや離れたビル内の職場にいた。2日後、爆心地から350メートルしか離れていなかった自宅に戻った。黒こげの両親の遺体があった。仰向けの父は両手で虚空をつかみ、母はうつぶせで、体の一部は灰になっていた。
弟と妹の姿を求め、長崎市内をさまよい歩いた。行方は今もわからぬままだ。
18年後の63年、体中に黒い斑点が出て入院した。一命は取り留めたものの、3年近い静養を余儀なくされた。原爆の放射線の影響だと思った。当時は神戸で教師をしていたが、退職せざるをえなかった。
転機は、65年に大阪に移って原水爆禁止運動に出会ったことだった。かつて通訳を務めるほど得意だった英語を生かし、海外で被爆証言をしてほしいとの声がかかった。
82年には、米ニューヨークで開かれた第2回国連軍縮特別総会に合わせて渡米し、世界各地から集まった市民らと国連本部前の広場からセントラルパークまで行進した。
原爆の光線を生き抜いて
そのとき、ひとりの男性に声をかけられた。広島で被爆した哲学者で、被爆者や原水爆禁止運動のリーダーとして活躍した森滝市郎さん(1901~94)だ。核が人間にもたらす惨禍への思索を重ねた結果、「核と人類は共存できない」と訴え続けてきた。
森滝さんは言った。「山科さん、死んでも当たり前の光線を生き抜いたんだから、原爆のことを後世に語るのがあなたの使命だよ。これまで生きてきたあなたの運命を神様が支えてくださったのだから」
その言葉は山科さんの心に深く刻まれた。「生き残った被爆者の使命」を果たすべく、国内外で証言を重ねた。これまで訪れたのは22カ国にのぼる。
ハワイの真珠湾で平和行進をしたとき、中年の女性が「ジャップ、ゴー、ホーム(日本人、帰れ)」と叫んで追いかけてきた。かつての日本軍の真珠湾攻撃で息子を失ったという。それまで原爆を投下した米国はただ憎いだけだったが、「戦争の被害者という意味では日本人も米国人も同じ」と悟った。
多くの学校でも体験を語ってきた。「平和の種」をまくため、子どもたちに必ず「三つのお願い」をしてきた。「戦争をしない」「外国の言葉を学んで」「一度は海外に出て」。相手の気持ちを知る。その大切さを学んでほしいとの思いからだ。
もう一つ、山科さんを突き動かしてきた核の惨事が、86年に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故だった。「先輩ヒバクシャ」としていても立ってもいられなかった。91年11月に設立された「救援関西」の代表に就き、ベラルーシの被災地で被爆体験を語ったり、救援物資を送って人的交流を重ねたりしてきた。
「救援関西」の発足25周年誌には、こんなメッセージを寄せた。「『ヒバク』は私の原点です。ヒバクシャとして生きる。ヒバクのない世界をめざしてがんばりましょう!」
山科さんは記者に向かってこれまでの活動を振り返った。「できるだけ英語でしゃべった。言葉を継ぎ足し継ぎ足ししながらも、英語でね」。世界を回って訴え続けてきたことへの自負が伝わってきた。(編集委員・副島英樹)
世界中回った、言葉の力
サービス付き高齢者向け住宅で暮らす山科さんへの面会はコロナ対策用のアクリルパーティションを隔てて、30分以内との条件で許可された。
山科さんは記者を前に、問わ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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