広島市安佐南区の津島休映(よしえ)さん(91)は、ここ2カ月間、テレビをつけるのをためらう日々が続いている。映し出される光景が、忘れたくても忘れられない77年前の記憶と似ているからだ。「ウクライナの人はどんなに怖くて、不安で、悲しいでしょう」
テレビでは、薄暗い地下室に避難しているウクライナの少女が「もう長い間、外に出られていない。空を見たい。太陽を見たい」と泣いていた。1945年、B29爆撃機の空襲を避けるため、防空壕(ごう)に駆け込んだ14歳の自分と重なった。
「私の夫はどこにいるの」と叫びながら、がれきの中を捜し歩くウクライナの若い女性もいた。77年前の夏、となりで被爆し、行方不明になった仲良しの上級生を捜す自分と一緒だった。
1945年8月6日。爆心地から約2キロの広島市尾長町(現・広島市東区)にある自宅から、市立第二高等女学校に歩いて向かっていた。
午前8時15分。猛烈な熱風…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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