福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記
六月二十二日(金)晴
今日もきのふと同じ作業。 午前は、きのふと同じ二階へのつみ上げ作業だったが、午後は五十米位(メートルくらい)の距離を運搬する作業だった。その路(みち)が坂なので、向(むこ)ふの倉へとゞく頃には、へたばってしまって、足が動かなくなってしまった。僕はその間落(おと)さずに運んだが、みんな途中で落してしまってゐた。 帰りはトラックでなくバスで帰った。
七時半就寢(しゅうしん)。 朝五時、警報発令 十時、警戒警報
六月二十三日(土)曇後雨
今日も同じく北茂安において作業。 今日はトラックが十台位(くらい)しか來(こ)なかったので、大変樂(らく)だった。ねむくてたまらない。 三時頃より雨となり、歸(かえ)るころには相當(そうとう)盛んに降ったので、バスで歸った。 今日は左程(さほど)肩はこらない。なれたか。 朝八時過ぎ警戒警報あり。
六月二十四日(日)曇少々雨
今日も北茂安にて作業す。 今日は靴運搬のバスの來(き)方が大変少なかったので、ほとんど遊んでゐた。晝(ひる)過ぎに雨が少し降ったが、歸(かえ)る頃には止んでしまった。 今朝○時頃、空襲警報が二回発令されたので、服装をかためて、國(くに)武さんのところへ荷物を少し運んだが、間もなく解除となった。 父は今日、宿直である。 今朝の○時空襲警報二回。
六月二十五日(月)
今朝五時頃、警戒警報発令。 今日は「日華ゴム」にて作業す。北茂安には三組が行く。作業は地下足袋を手押車で運搬して、貨車につみこむホームで下す作業。午後より頭痛の爲(ため)、早退す。寢(ね)冷えした所爲(せい)か。 ねながら、前から國(くに)武さんにお貸ししてあった「イギリスの傳説(でんせつ)と神話」をもどしてもらって、少しばかり讀(よ)んだ。父が「久留米観光讀本」を生徒の家からもらってかへって來(き)た。 晩は十時頃ねた。今晩は久しぶりに僕の部屋でねた。今までは、客間で一人でねてゐたのだが。 ※福岡県久留米市出身の竹村逸彦さん(89)が14歳だった戦時中に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しています
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