相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で平成28年7月、入所者ら45人が殺傷された事件で17日に横浜地裁で開かれた、殺人罪などに問われた元職員、植松聖(さとし)被告(30)の裁判員裁判論告求刑公判。犠牲者の一人、美帆さん=当時(19)=の母親が意見陳述を行い、時に声をふるわせながら心情を語った。
陳述の全文は以下の通り。
◇
私は美帆の母親です。
美帆は12月の冬晴れの日に誕生しました。1つ上に兄がいて待ちに待った女の子でした。幼いころはとても音に敏感でした。大きな音初めての場所、人がたくさんの場所が苦手でした。人に挨拶されただけで泣き叫ぶ子でした。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。本を読んだり、講演会に通い、少しでも美帆のことを理解しようとしました。他の親御さんたちと障害のある方や、その親の気持ちを伝えようと思い、学校や地域で語ったこともありました。睨(にら)まれたり、怒られたりするのが恐かったから理解してくれる人を増やそうと思いました。美帆が私の人生の全てでした。
多くの良い先生や、友達、支援してくれた職員さん、ガイドヘルパーさん、ボランティアさんに恵まれました。皆、やさしく接してくれたので、とても人が好きで人懐っこい子に育ちました。とても音楽が好きでいきものがかり、ドラマの主題歌や童謡、クラシック、アニメ等ジャンルは問わず、いろいろな曲を聴いてノリノリで踊っていました。乗り物に乗っていると御機嫌でよくドライブしたり、電車やバスに乗りました。小さい時はブランコが大好きでした。プール、ジェットコースター、プラネタリウム、水族館、パレード、らーめん博物館、公園等、本当に大好きでいろんな場所に家族やガイドヘルパーさん、ボランティアさんと出かけていました。
成長するにつれ美帆は落ち着いてきました。一方で、9歳から大きなてんかん発作があり、小学校5年生ぐらいから多い時は週1、少ない時も月1回ぐらい発作がありました。
家庭の事情で中学2年生の時から児童寮で生活していました。毎月会いに行くのが楽しみでした。仕事も娘のためと思うとがんばれました。多い時には4つの仕事をかけもちでしていました。
娘に障害のこと、自閉症のこと、てんかんのこと、いろいろ教えてもらいました。私の娘であり先生でもあります。優しい気持ちで人と接することができるようになりました。待つことの大切さや、人に対しての思いやりが持てるようになりました。人の良い所(長所)を見つけることが上手になりました。人を褒めることが上手になりました。
美帆は人懐っこくて言葉はありませんが、すーっと人の横(そば)に来て挨拶をして前から知り合いのように接していました。笑顔がとても素敵で、まわりを癒やしてくれました。ひまわりのような笑顔でした。美帆は毎日を一生懸命生きていました。
「お母さんのことを思うといたたまれません」と言われて、むかつきました。考えも変えず、1mmも謝罪された気がしません。痛みのない方法で殺せば良かったということなんでしょうか。冗談じゃないです。ふざけないで下さい。美帆にはもう、どんな方法でも会えないんです。
当日は7時30分頃「美帆が被害にあっている」との連絡をもらい9時~10時の間頃やまゆり園に着きました。名簿の×を見た時から、もう何が何だかわからなくなり、頭も真っ白でした。何回も夢じゃないかと思い、ほっぺたをつねってみたのですが、夢か現実か、自分が誰なのか、どうしてここにいるのかもわからなくなっていました。
だいぶ時間がたってから美帆に会えました。顔しか見せてもらえませんでした。ストレッチャーに乗せられていて「美帆ちゃん、美帆ちゃん」と何度呼んでも答えてくれなくて、自分で体温調節をするのが苦手で汗をあまりかかない子だったのでいつも暖かい子が、その時は、すごく冷たくて、冷たくて、そんなこと一度もなかったのにすごく冷たくて一生忘れることのできない冷たさでした。会ったのは数分だと思います。
プリント等配っていましたが、何を手にしているのだろう、皆、何を言っているのだろうと不思議でした。私は頭痛がひどくて「診療所の先生が園に来ているから具合の悪い人は言って下さい」と園長先生に言われて診てもらったら「血圧がすごく高いので頭痛はなおらないけど点滴するので診療所に来られるようなら来て下さい」と言われ警察の車に乗せて頂き点滴を受けました。警察と園と遺族の話しで、名前を出すか出さないかでとても揉めていたのを覚えています。私は言葉がでなくて一言も発することが出来ませんでした。
葬儀は、地元の斎場で音楽葬でしました。マスコミが多く来ていたようですが、弁護士会から来て頂いている弁護士や警察が協力して入れないようにしてもらえました。美帆の好きな童謡やいきものがかりなどの音楽を流し、参列者には娘の顔も見てもらいました。美帆のアルバムや額に入った写真を見てもらいました。着物を着せて見送りました。のべ200人位の人が見送ってくれました。
事件後、家(うち)はめちゃくちゃになりました。社交的で老人会や自治会の活動に積極的に参加していた祖母が家に引きこもってしまい、一歩も外に出なくなりました。人と話をするのが好きだったのに誰とも話さなくなりました。料理や庭の手入れをするのが好きでしたが全くしなくなりました。笑顔が消え、表情がなくなりました。兄は具合が悪くなり、休み、休み、仕事をしていましたが入院することになり仕事を辞めました。私は食事をしても味がわからなくなり、9kgやせました。心療内科に通い薬を飲むようになりました。体が痛くて寝る時に骨が当たって痛くて眠れませんでした。1人で外出するのが怖くなり、外に出られなくなりました。がんばって外に出ると心臓の動悸がすごく、ドキドキしてブルブル全身が震えてしまうことがよくありました。今でもこの発作で震えてしまうことがあります。私の人生はこれで終わりだと思いました。自分の命より大切な人を失ったのだから。美帆がいなくなったショックで私達家族は、それまで当たり前にしていたことが何一つできなくなりました。
私達家族、美帆を愛してくれた周りの人達は皆、あなたに殺されたのです。未来を全て奪われたのです。美帆を返して下さい。
他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを伝えます。
あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。
御両親から教えてもらえなかったのですか。
周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。
何て、かわいそうな人なんでしょう。
何て、不幸な環境にいたのでしょう。
本当にかわいそうな人。
私は娘がいて、とても幸せでした。決して不幸ではなかったです。「不幸を作る」とか勝手に言わないでほしいです。私の娘はたまたま障害を持って生まれてきただけです。
何も悪くありません。
あなたの言葉をかりれば、あなたが不幸を作る人で、生産性のない生きている価値のない人間です。
あなたこそが税金を無駄に使っています。あなたはいらない人間なのだから。
あなたがいなくなれば、あなたに使っている税金を本当に困っている人にまわせます。
あなたが今、なぜ生きているのかわかりません。
私の娘はいないのに、こんなひどいことをした人がなぜ生きているのかわかりません。
何であなたは一日三食ごはんを食べているのですか。
具合が悪くなれば治療も受けられる。
私の娘はもうこの世にいなくて何もできないのに。
あなたが憎くて、憎くて、たまらない。八つ裂きにしてやりたい。
極刑でも軽いと思う。
どんな刑があなたに与えられても私は、あなたを絶対に許さない。許しません。
私の一番大事で大切な娘、美帆を返して下さい。
美帆はこの世にいなくて、好きなことは何もできません。私達家族とあうこともできません。失われた時間はもう二度と取りもどせません。
でも、あなたは、こうして生きています。ずるいです。おかしいです。
19人の命を奪ったのに。美帆は、一方的に未来を奪われて19年の短い生涯を終えました。
だからあなたに未来はいらないです。
私は、あなたに極刑を望みます。
一生、外に出ることなく人生を終えて下さい。
2020年2月17日 美帆の母
Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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