ビルマ戦記を追う<31>
兵隊や軍医、捕虜、外国人といった、さまざまな人が書き残したビルマでの戦記50冊を、福岡県久留米市在住の作家・古処誠二さんが独自の視点で紹介します。
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前述の井上咸(はやし)氏は「敵・戦友・人間」において終戦後の軍旗奉焼にも触れている。将兵にとって軍旗の存在は非常に大きかったのである。
菊歩兵第五十六聯隊戦記編集委員会がまとめた「菊歩兵第五十六聯隊戦記」には、ずばり「軍旗奉焼」という手記が収められている。寄稿者は同連隊最後の軍旗小隊長となった田村進氏である。
終戦時、第五十六連隊の本部はシッタン河の東、モパリンの森深くに位置していた。ビルマは雨期だった。奉焼日の八月二十五日は朝からどんよりと曇り、午後五時の奉焼時には雨が降っていたという。
奉焼台に横たえられた軍旗にガソリンがかけられ、連隊長の手で着火がなされた。号令とともに将校は抜刀の礼、兵は着剣捧げ銃(つつ)の礼を行った。燃え残った御紋章は砕かれた上でひとまず埋められた。処置に遺漏のないよう命じられていた田村氏は、翌朝に奉焼場所へ戻る。そして掘り起こした御紋章をさらに砕き、より深い森に深さ約一・八メートルの穴を掘り、白布に包んだ軍旗の灰と共に奉安した。「軍旗は、今も静かに、ビルマ国モパリンの樹海の土深く眠っている」と田村氏は記している。
その場所はもう誰にも分からない。ミャンマー取材のおり私もモパリンに足を延ばしたのだが、街道と鉄道と家々の他は林と森ばかりの地だった。
「菊歩兵第五十六聯隊戦記」は部隊史の中でもその分厚さにおいて群を抜いており、収められている手記の数は膨大である。人は忘れられることを恐れる生き物なのだと実感せずにはいられない。軍旗が神聖視されたのは連隊の歴史が詰まっているからでもあるし、全国にある戦争関連の様々な碑も事実を風化させぬためにこそ建立された。
ちなみに第五十六連隊の碑は久留米城址(じょうし)の篠山神社境内奥にある。その横には、ビルマに散った友を想う碑文が添えられている。
(こどころ・せいじ、作家)
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古処誠二(こどころ・せいじ) 1970年生まれ。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年に「UNKNOWN」でメフィスト賞を受賞しデビュー。2千冊もの戦記を読み込み、戦後生まれながら個人の視点を重視したリアルな戦争を描く。インパール作戦前のビルマを舞台にした「いくさの底」で毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。直木賞にも3度ノミネートされている。
西日本新聞
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