福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記
八月三日(金)曇後雨
今朝は全く久しぶりに警報が出なかった。 今日も缺席(けっせき)。下痢は、きのふまでは、良くなってきてゐたのに、今日は又(また)悪くなった。九時頃までに便所に四回行った。 松本さんのところに本箱及(およ)び本を疎開させるので、客間の本箱二つを出して、その中に大事な本をつめて、あとの二つの本箱は、うちにおいて、その中には別に大事でない本を入れた。 裏の飯島さんに召集が來(き)た。もう四十三・四才位(さいくらい)の方だけれど。 午後は殆(ほとんど)ど便所に行かなかった。 父は今日宿直である。 今日は全く警報が出なかった。一体何日ぶりだらうか。 【注釈】この頃の食糧事情として、1945(昭和20)年8月3日の西日本新聞朝刊に「常食に活(い)かせ山菜類」という記事がある。決戦食確保のため利用できるものとして「ヒユ、イヌビユ、スベリヒユ、クローバー、アカザ、オオバコ」などのあえ物や油炒め。代用茶として「カワラケツメイ、萩の葉」など。動物性タンパク質として「食用蛙(がえる)はもちろん、普通の蛙の照り焼き」「蝗(いなご)のミンチボール」「蛇のてんぷら」「オタマジャクシの団子」などが「美味である」としている。
八月四日(土)曇後小雨
今日はだいぶよくなって、便所は朝一回しか行かなかった。 十五時頃空襲警報が発令された。この二日間、沖繩(おきなわ)方面が暴風とのことで警報が出なかったので、久しぶりにサイレンを聞いたやうだ。小型機が久留米平野を通過したやうだ。 夕方三人で、きのふ松本さんの二階にあづけた本を整理し、且(か)つ又(また)、數(すう)十册(さつ)の本をもって行った。で、うちには、ほんのガラクタしかない。 僕は今日を加へて五日間缺席(けっせき)したが、山本君も、今日を加へて四日間休んださうだ。やはり腹痛ださうだ。工場の水道の水は、筑後川の水を直接引いたものだから、やはり僕と同じやうに生水をのんで腹をこはすのだらう。 國武(くにたけ)さんにおととひお借りした本をかへし、「遊びの理科研究」をかりた。 十五時空襲警報
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