福岡県の高柳直美さん(54)と俊治さん(53)は、特別養子縁組した2人の子を育てる。
息子(14)は中学3年、娘(12)は中学1年。思春期まっただなかの息子と「バトル」の日々だ。
けんかするたび息子は「おれの親じゃないくせに」と言う。
「おれを産んだお母さんだったらスマホを買ってくれるはず」
「もっと若いお母さんがよかった」
初めて「親じゃないくせに」と言われたとき、直美さんは「グサッときた」。
私はだめな親なのかな。
やっぱり妊娠の「十月十日」がなかったからな。
でも先輩の養親に相談したら、「順調、順調! どんなことを言ってもこの人たちは自分を嫌いにならないって安心してるから、そう言えるんだよ」と言われ、救われた。
いまは堂々と「でも、あなたのお母さんは私やけんね」と言い返す。
「先輩養親さんの生の声があるから、ここまでやってこられた。心が折れても、話を聴いてもらうことで、立て直すことができた」と直美さん。
俊治さんも「おかげで孤立しないで済んだ」と話す。
特別養子縁組で育ち、「みそぎ」の名前で活動する男性(26)とは1年ほど前に知りあった。当事者団体「Origin」の養親サロンにもよく参加する。
「弱音は吐けない」と思っていた
夫婦そろって子どもが好き。不妊治療を5年ほどがんばったが、精神的にも経済的にもきつくなり、区切りをつけた。
そのころ住んでいた福岡市の市政だよりがきっかけで、特別養子縁組を知った。
研修や面接を夫婦そろって受けて、2007年秋、特別養子縁組を前提に里親登録をした。
2カ月後、生後半年の男の子を託したいと児童相談所から声がかかった。夫婦そろって乳児院へ行った。
児相の職員が「あの子ですよ」と示した先に、小さな赤ちゃんがいた。こわごわ近づいた。抱っこを促され、直美さんはガチガチに緊張した腕で抱きあげた。「すごく小さいのに、すごく重たい」と感じた。
それから毎日、直美さんは乳児院に通った。
保育士に教わりながらミルクをあげ、おむつを替え、泣けば抱っこした。一緒にいればいるほどかわいく、いとおしくなった。
年末年始は自宅で一緒に過ごすことを打診され、「大丈夫です。任せてください」と答えた。
年が明けて3月には、本格的に3人暮らしが始まった。
最初の半年は里親として育てる試験養育期間だ。問題があれば縁組話はなくなる。
暮らし始めてまもなく、息子が突発性発疹で熱を出した。医院に連れていったが、熱が下がらない。ミルクも果汁も飲んでくれない。
俊治さんが「乳児院に連れていこう」と言った。
だが、直美さんはためらった。「任せてください」と言ったのに、弱音を吐いたら、だめな親だと思われてしまう。「親として失格。もう子どもは返して」と言われてしまう。そう思ったからだ。
一睡もせずに看病して、朝方、俊治さんの車で乳児院へ向かった。
引き離されることを覚悟した直美さんに、職員が「お母さん、精いっぱいがんばってくれましたね」と笑顔で言った。
ほっとした瞬間、どっと涙があふれた。抱え込まずにSOSを出すことの大切さを、かみしめた。
「いつ言う?」告知のタイミングに苦悩
息子が1歳の時に縁組は成立した。
3歳になるころ「きょうだいがいるといいね」と夫婦で話し、まもなく生後3カ月の女の子と縁があった。
家族4人の生活が始まってまもなく、次の課題がもちあがった。
生みの親がいることを伝える「真実告知」だ。
「3歳までに告知しましょう」と言われていた。
子どもがいとおしいからこそ、直美さんは「私が産んだ」と錯覚しそうになっていた。
二人とも赤ちゃんのころから一緒にいる。縁組後半年もしたら児相の家庭訪問もない。
「言わなくても、どうにかなるんじゃないか」。そんな思いにとらわれた。
だが、俊治さんが「真実は分かるんだよ」と言った。
戸籍や住民票に記録は残る。いきなり乳児がきたことを近所の人も知っている。一生懸命育てても最後に「うそをついた」と言われたら、どうなるか――。
「真実は隠し通せない。伝えても崩れない親子関係をつくっていくしかない」
最初の告知は息子が4歳になる直前。リラックスした時がいいだろうと選んだのは、温浴施設の家族風呂だった。
なかなか言い出せず、「いつ言う、いつ言う?」と夫婦で目配せしているうちに、息子がのぼせてしまった。
あわてて直美さんが「○○に…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル