「来るぞ!」
上司が叫んだ数秒後、当時30歳だった妹の恵理子(えりこ)(40)は机の下に潜り込んだそうです。
ガタガタガタ……。小さな揺れはあっという間に大きくなり、何分も続きました。恵理子はそのときのことをこう振り返りました。「揺れも音もすごかったのを覚えてる」
大内悟史記者の実家は避難区域には含まれていませんが、原発の存在は影を落とします。両親とともに原発が立地する双葉町へと向かう道中、大内記者は思いがけない自分の過去を知らされます。
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福島県いわき市の港町、小名浜(おなはま)。妹が勤めている会社の事務所は、岸壁からわずか数十メートルの距離にあります。テレビをつけると、市内第2の街、小名浜にも津波が到達する恐れがあると伝えていました。
妹たち約30人は避難マニュアルに従い、近くの高台を目指して歩き始めました。高台までは直線距離で1キロ余り。マニュアルでは、渋滞に巻き込まれる恐れがあるため、徒歩で避難する取り決めになっていました。
「本当に(津波が)来るのか分からないよねと会話しながら、海岸線と平行に東へと普通の速さで(歩いた)。途中で何度か余震が来て、建物のガラスが割れるのも目にした」
途中で「避難すんのげ?」と住民に声をかけられました。街なかの小さな川を渡り、地震から約20~30分で高台にたどり着きました。坂の途中で振り返ると、黒々とした波に浸水する港が見えました。
「津波が迫っていた、というより音もなく近づいてきていたという感じで。港を見たら、一面の水たまりになっていて。本当に津波が来たんだなと驚いた。もう少し歩くのが遅かったり、津波が早く来たりしたら津波に遭遇していたかもしれない」
しばらくすると、引き波で岸壁が滝のようになったそうです。その後もその日の夜にかけて、小名浜は何度も津波に襲われました。 妹は近くのお寺で暖をとらせてもらい、午後7時過ぎ、数少ない「生き残り」の社用車に分乗して家を目指しました。社員の車や社用車の多くが波にのまれていたためです。いつもは家まで車で20分ぐらいでしたが、そのときは渋滞して2時間以上かかりました。
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「街のあちこちに水たまりがあり、ああ、(一時は)浸水したんだなって。助かる、助からないという命の危機は感じなかった。家に帰ってテレビを見て、やっと現状を把握した」
そのころ、東京・築地の朝日新聞東京本社にいたぼくのもとに両親から、妹が無事だという携帯電話のメッセージが入りました。夜も遅くなってからのことでした。
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- 実家の半壊や祖母の震災関連死。放射能の数値。そして両親は70歳代に――。東日本大震災の被災地である福島県いわき市に生まれ育った47歳の記者が、この10年間に故郷の農村と家族の身の回りに起きた出来事を、10回にわたってつづります。
翌朝は土曜でしたが、父の大内義洋(よしひろ)(77)は、4WDで小回りがきく軽トラックに妹を乗せ、妹の勤務先を目指しました。港の公務員を勤め上げた父にとっては長年通った、勝手知ったる道でした。父は当時を振り返って、こう言いました。「片側何車線もある幅広い産業道路はがれきの山。泥まみれの車に古タイヤ、材木、大小の漁船や台船まであちこちに打ち上げられていて目を疑ったよ」
妹の会社事務所は、1階が高さ…
2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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