「1%の人でも」ドラマー松田晋二さん、震災地への思い

 生きづらさや孤独、悲しみを激しいメロディーにのせて歌うロックバンド「THE BACK HORN」。東日本大震災の直後から、東北への支援を続けてきた。ドラムスで福島出身の松田晋二さん(42)が故郷へ向ける思いとは――。

 ――ふるさとへの思いを教えてください

 18歳まで福島県南部の塙町にいました。でも、当時は街のよさがあまりわからなかった。友だちも近所の人も周りが全員顔見知りなんです。温かい街だと感じる一方で、思春期になるにつれ、もっと外の世界を見たいと思うようになった。でも、上京すると今度は誰にも見られていない感じがさみしくて、故郷への思いは強くなりました。

 震災の翌日が母の誕生日なんです。12日にやっと連絡がついて、家族がみんな無事だとわかって。その日の夜だったかな、家族全員がロウソクの明かりの下で、寄せ集めの飲み物や食べ物を持って母の誕生日を祝う写真が送られてきた。すごいたくましさを感じて、今でも忘れられない。

 ――震災当時はなにをしていましたか

 あの日は都内でメンバーとリハーサルをしていました。地震で交通網がまひして、それぞれが歩いて帰宅した。津波のニュースを見て、故郷が大変なことになっていると理解した。広島でのライブを間近に控えているときでした。

 バックホーンは、「平和な時こそ隠れてしまった孤独や悲しみに光を」といったメッセージを込めた曲を作っています。「俺たちは色々な悲しみと向き合わなきゃならないんだ」ということを歌ってきた。だから最初は、悲しみにあふれてしまった今、歌えるのかって不安があった。

 ――震災直後の3月30日にチャリティーソング「世界中に花束を」を配信しました

 15日にメンバーで集まって、そのままメッセージを発表しました。そのとき、東北のためにやれることは音楽をつくることだと、みんなの意見が一致した。悲しみや痛みと向き合ってきたバンドだからこそ、こんな時に歌おうと思い直しました。すぐ、事務所の社長とレーベルの担当者に、曲を配信して収益を被災地に送ることを相談しました。

 震災直後に必要な曲がどんなものかは、思いつかなかった。そもそも音楽は必要とされているのか。あの時はあらゆるアーティストが表現の無力さと向き合ったと思う。でも僕らの場合、僕とギターの菅波(栄純さん)は福島、ボーカルの山田(将司さん)が茨城出身。ベースの岡峰(光舟さん)も同じ気持ちで、被災地を身近に思うメンバーが集まっていた。やらなければいけない使命感が勝った。曲を聞いた人の1%にでも心のやすらぎを届けられればという気持ちだった。

 楽曲のモチーフは山田の中にあって、歌詞の断片は僕が持っていた。それを菅波が持ち帰って、一つの楽曲にしてくれた。

 ――「被災地」となった故郷や東北へ行った

 震災直後の動きはメンバーそれぞれ。僕の場合は、福島のミュージシャンで組んだバンド「猪苗代湖ズ」のメンバーと、4月に県内の避難所を回った。体育館とかへ物資を持って行くと、すごくありがたがってもらえて。でもそこで、いてもたってもいられない気持ちになった。「ありがとう」と言われたくて自分は来たのかとか、僕も福島の人間なのにとか。複雑な気持ち。「こんな福島は見ていられない」と思う自分がいる一方、被災した現実と向き合う人が目の前にいる。この目で見て、受け止めないとと思った。

 震災後、最初に東北を回ったライブで盛岡の「Change Wave」へ行った。あの時の観客の表情が忘れられない。音楽をあびている実感があるというか、苦しみや喜び、痛みとかが混ざった表情をしていた。音楽を欲してたんだと思う。あのライブで、音楽の力をみんなに肯定してもらった気がする。

 ――あれから10年です

 ゆっくりと心の整理もついて、多くのものが復興へ向かって進んでいる。10年の過ごし方は人それぞれ。僕らは音楽をやる人間として、震災の記憶を残していかなくちゃいけないと思う。10年という、みんなにとって平等なタイミングに、それぞれの気持ちがとにかく安らげることだけを願いたいと思います。福島に生まれた僕としては、震災を忘れない気持ちを持ちながら今後も音楽と向き合っていくのが、自分の役目だと思っています。

 ツアーの度に東北へ来ていたのに、昨年からは新型コロナウイルスでそれもできていない。実家も含め、1年以上帰ってないなんて初めてじゃないかな。また、ライブハウスでみんなに会いたいなあ。(聞き手・御船紗子)

     ◇

 ザ・バックホーン 1998年、東京で結成。2001年に「サニー」をメジャーリリース。代表曲は「コバルトブルー」「罠」など。


Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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