「1人だけ助けられなかった」…母のことを知った日 何かが変わった

 地震のことなんか知りたくもない。入学してすぐにやめたいと思った。

 早川美幸さん(34)は2002年春、兵庫県立舞子高校の環境防災科に進学した。阪神・淡路大震災をきっかけに、この年に発足した国内初の防災専門学科だ。

 小学2年の時、その震災で母を亡くした。その日から笑うことを忘れ、毎年1月17日が近づくと気持ちが沈んだ。

 だから地震のことは、聞くのもいやだった。環境防災科に入ったのは、すぐにでも就職したくて、福祉の勉強ができると勧められたからだ。「学校やめる」。科長だった諏訪清二さん(61)に、毎日のように言った。

「かんぼう」の子 震災を知るということ 阪神大震災27年

 入学して1カ月ほどしたある日のこと。神戸市消防局の垂水消防署副署長だった藤井章三さん(72)の講演が教室であった。

 阪神大震災で藤井さんは、消防士として明石市の自宅から、すぐに最寄りの消防署へ向かった。

 それから、あちこちで火の手が上がっていた神戸市長田区へ向かった。

 道中、ガソリンスタンドの従業員から「店の火をなんとかしてくれ」と頼まれたが、水が出ず、どうしようもなかった。

 そんな経験を淡々と語っていた藤井さんのマイクを持つ手が急に震えた。次に駆けつけた西市民病院でのことを話していた時だ。

震災後に創設され、今春で20年になる兵庫県立舞子高校環境防災科(かんぼう)で学んだ若い世代は、震災について何を学び、何を思うのか。その姿を描きます。

顔上げられなくなり、うつむいた

 「1人だけ、助けることができませんでした」

 その日の夕方、藤井さんが病…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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