神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市)の入所者ら45人を殺傷した植松聖被告(30)に16日、死刑判決が言い渡された。事件は派生的に「生きるに値しない生命はあるのか」という根源的な問いを投げかけた。ならば、刑罰として被告の生命を奪う極刑は、どう受け止めればいいのか。連載の3回目。(川島 秀宜)
「これから裁判員になりうるみなさんは、死刑制度をどう考えますか」。東京大大学院教授の市野川容孝=医療社会学=は昨年12月、授業で学生に問い掛けた。引き合いに出したのは、津久井やまゆり園事件だった。
被告の植松は重度障害者を「生きるに値しない」と決めつけ、入所者19人を殺害した。死刑はどうか。社会は死刑囚に対し、最終的に「生きるに値しない」と断罪しているのではないか――。そうした問題提起だった。
「だとすれば、わたしたちは彼を処刑することで、彼の考えを部分的に認めてしまうことになる」。市野川は、死刑制度そのものに反対する。
作家の辺見庸も当初から、この事件に奇妙なパラドックスをみていた。「被告を死刑にすることで、この社会は彼を肯定することになる」と。
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辺見には、東京拘置所(東京都葛飾区)で数十回にわたって面会した確定死刑囚がいた。1992年に千葉県市川市で一家4人を殺害し、2017年12月に執行された関光彦(当時44)だ。
辺見は、関との面会に立ち会った刑務官の、急変した表情が忘れられない。ほおが紅潮し、涙があふれ、唇が震えだしたという。「処刑が近いのだと思った」
松本智津夫(麻原彰晃)らオウム真理教元幹部7人の死刑が執行された18年7月6日。テレビ各局は臨時ニュースに切り替え、生放送で報道した。一部の特番で、処刑された元幹部の顔写真に「執行」のシールを貼り付ける演出があった。ネット上で「死刑のショー化・見世物化に他ならない」(中島岳志・東京工業大教授)といった批判が寄せられた。
「死刑囚の死に、われわれはあまりにも鈍感ではないか」と辺見は問う。対照的に、あの刑務官が見せた狼狽(ろうばい)は「人としてごくまっとうな、尊い反応だった」。
刑場で死刑囚を絞首せしめるのは、法でなく、国家でもない。「われわれが刑務官にやらせている」。辺見は続ける。「死刑という生体の『抹殺』をなんとなく黙過する人々と、『抹殺』を一人で実行した被告との距離は、それほど遠いわけではないのではないか」
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植松に16日、死刑判決が言い渡された。元裁判官で弁護士の森炎は、死刑という結論は「社会からの排除・抹消」という観点では導けないという。それでは、「被告の考えと重なってしまう」。
ならば、市野川や辺見が考えるように、植松の死刑は否定されるべきなのか。森は、人間の尊厳の見地から肯定されると指摘する。「他人を殺したうえで、自分だけは生きたいという欲望は、真に人間的とはいえない。被告も人間であるために、自分だけは生きたいという欲望を乗り越えることが求められる」。その法制度が、死刑であると。
ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に関与したナチス高官13人に死刑が要請された道理と重なるという。「死刑でなければ、社会は歴史の新たなページをめくれないだろう」
ただし、植松個人の生命に着目したとき、われわれは特定の人間に死を強いる苦難に直面する。森はそれを「試練」と呼ぶ。
=敬称略、つづく
Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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