【東京五輪 社会学】警視庁武道館に日本の心受け継ぐ「ヘーシンクの人形」64年東京五輪柔道金メダルも、駆け寄る仲間に“土足で畳に入るな”(スポーツ報知)

 警視庁武道館(東京都江東区)には、年代物のオランダ人形が保管されている。1964年東京五輪柔道男子無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンク氏(2010年死去)が稽古場所を提供した警視庁に感謝を込めて贈ったものだ。日本人が柔道で外国人に敗れたことに国民が衝撃を受けてから56年。人形に込めた「日本の心」は、2021年東京五輪にも受け継がれていく。(北野 新太)

 半世紀以上の月日が経過したとは思えないほど、青い目は真新しい存在感を放つ。警視庁武道館1階柔道場。入り口脇にあるガラスケースの中で「ヘーシンクの人形」は数え切れない優勝杯やトロフィーに囲まれ、稽古で行き交う柔道家たちを見守っている。

 1962年2月。当時28歳だった元警視庁柔道師範の山本四郎さん(86)には鮮やかな記憶が残っている。「ヘーシンクがキューピーみたいな人形をくれたんです。彼らしいなあと思って『あなたの心は素晴らしいね』と伝えたことを覚えていますよ。忘れられません」

 柔道発祥の国で50年代から稽古を始めていたヘーシンク氏は警視庁でも汗を流した。同い年の山本さんは懐かしむ。「毎日、稽古が終わると『コーヒー飲みに行きましょう』って誘ってくれて。近くの神保町でスパゲティやサンドイッチ食べたり。お互いに片言だけど気持ちは通じ合っていると感じました」

 大男の口癖は「あなたはいつも元気ですねえ」「私の体落とし、効いてます?」と、そして「柔道は素晴らしい」だった。「ヘーシンクは柔道の心を、日本の心を愛していました。もちろん柔道家としても本当に大きくて強くて。支え釣り込み足なんて、やっても歯が立たない。でも、ひとりぼっちになるとさみしそうにしてるんです」

 人形を贈った日から2年後の東京五輪決勝。日本武道館の畳の上で、日本中の期待を一身に背負った神永昭夫選手をけさ固めで破る瞬間を、山本さんは目の前で目撃した。「畳に向かって走ってくるオランダチームをヘーシンクは手で制していた。土足で畳に上がってはいけないと。神永さんの手を取って礼もした。嘉納治五郎先生の心を継承する男だと思いましたよ」

 日本だけでなく世界も驚かせた金メダルは、柔道競技の転機にもなった。「日本の常勝では柔道は国際化しなかった。ヘーシンクが勝ったことで柔道の心は世界に知られた」。山本さんも国際普及の道へ。ドイツ、イタリア、スペインなどで長年の指導を続けている。セネガル代表監督だった1972年に、チームの合宿で旧友と再会した。「あの人形、ありがとう」と伝えると大男は照れ笑いを浮かべていた。

 64年東京で始まった五輪柔道は、92年バルセロナで女子も正式競技に。21年東京では混合団体戦も新種目としてスタート。87年からIOC委員を務め、カラー道着導入を提案したヘーシンク氏の生涯と国際柔道の歩みは重なる。

 男子66キロ級の丸山城志郎(26)、阿部一二三(22)の代表争いが注目された五輪代表最終選考会の全日本選抜体重別選手権が4、5日に予定されていたが、新型コロナウイルスの影響で延期になった。見えざる敵との闘いを強いられる今を、東京五輪金メダリストはどう語っただろうか。山本さんは断言する。「人命に関わることはどうすることもできない、と言ったと思います」。今は待たなくてはならない時。柔道では「待て」の後の「始め」の合図から物語が始まる。

 ◆アントン・ヘーシンク(1934年4月6日~2010年8月27日)オランダ・ユトレヒト生まれ。13歳で柔道を始め、52年に欧州選手権金。レスリングでも欧州選手権金。61年世界選手権金。64年東京五輪金。67年引退。欧州選手権金は通算21。73~78年は全日本プロレスで活躍。87年にIOC委員に。97年、国際柔道連盟から名誉十段を授与。2003年、国際柔道連盟殿堂入り。現役時代は身長198センチ、体重120キロ。

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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