学校でのできごと、友だちのこと、家族のこと、将来のこと――。
広島、長崎に住む10代の若者3人が、それぞれの何げない日常をしたためた日記があります。
1945年8月、「あの日」までの日々。毎日、1日分ずつ紹介していく予定です。
■■■1945年7月29日(日)■■■
夏の日曜日。広島第一高等女学校の熊本悦子さん(13)は小川へ行きました。空襲を恐れてか、それとも子どもが疎開に出たせいか、人影もまばらです。
家庭修練日。
今日は、井の口の親類へ行った。少し歩いたので、何となく足がだるくて仕方がない。桃を少しいただいたので、持って帰った。
昨日の南瓜(カボチャ)でご飯を炊いた。栗のように甘くて玉子飯のように黄色くて、大へんおいしかった。母の白毛を抜いて小川に行ったが、早くかえった。空襲におそれると見えて、人が少なかった。第二回疎開児童も出たせいであろう。尾長町の親類へ、五つの仕事をしにお使いに行った。今日の水泳は母に中止とされた。悲しくて悲しくてたまらない。向こうにつくと、その親類の方が来ておられた。弟と5カ月違いの男の子と一しょに遊んだ。面白くて夢中になっていた。
午後けいほうが出たので、解除まで待った。お姉ちゃんお姉ちゃんとなついたと思うと、かえらなければならない。両方とも悲しい。荷物が重いので、手がにがって(痛んで)ならない。電車の中でも居ねむりしていた。
家にかえるとすぐ、今もらったばかりの海水着を見せた。母は大へん喜んでいらっしゃった。私もうれしくてうれしくてならない。すぐあわして見て、しまっておいた。左手があまりにがるので、困った。入浴して髪を洗った。
今日は朝から空襲警報が発令されたが、正午ごろに敵機約三十数機が上空通過の際若干投弾した。ビリビリッという家の震動、キューンという音を発しつつ急降下し来る敵小型機。ダーンというたたきつけるような爆弾の音は最初の経験とて少々怖かった。何というざまだ。まだやっと序の口ではないか。本当の爆撃を食うのは今からだ。
午後Iの家へ行く。明日いよいよ彼も福岡なる九大工専へ行くそうだ。例のJ嬢が先客に来ていた。Iも存外幸福者だ。口ではかえってありがた迷惑みたいな口ぶりだったが、内心はまんざらでもないらしい。
3時半ごろちょっと夕立が来た。夕立だと思うと夏らしい気分がする。
米が模擬原爆「パンプキン」を投下
米の原爆投下部隊「第509混成群団」が訓練のために模擬原爆「パンプキン」を投下した。この日は、東京都や山口県、福島県など国内8地点が投下目標とされた。
記事の後半では、冒頭の日記を書いた森脇瑤子さんのスナップを、研究者の協力を得てカラー化した写真の数々を紹介しています。
この日の広島・長崎
広島 最高気温28.2度…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル